日本清酒は、三十四年七月に札幌清酒工場(南3東5)を現地に新築し、三十四酒造年度には旧工場の生産能力を超える二七〇六キロリットルを製造し三十八年度には三六〇八キロリットルに達している(日本清酒株式会社四十年史)。日本清酒の清酒売上高は、四十四年まで増加を続けるが、四十五年に対前年比一六・八パーセント減となっている。日本清酒は、味噌醸造なども手がける多角経営なので、清酒の停滞はさほどひびかなかったものと思われる。中小清酒メーカーは、再編統合を余儀なくされており、そのなかの一つ、野崎酒造(株)(旭川市)を四十五年五月吸収合併した。野崎酒造とは、三十五年以来、日本清酒が「おけ買い」をする関係であった(日本清酒株式会社五十年史)。
写真-1 日本清酒
札幌の中川酒造、大同酒造などの清酒メーカーは、四十三年にビールの「純生」に対抗して「活性清酒」(にごり酒)を開発、販売した(道新 昭43・3・24)。しかし、こうした努力も功を奏さず、中川酒造は四十二年、四十三年と欠損を出し、廃業を決めている(道新 昭45・10・2)。
このころから、池田町は自治体ワイン「十勝ワイン」を製造、売り出しをはじめ、富良野市もワイン製造を計画していた。北の誉酒造では、フランスのフレミクール社とワインの輸入契約を結び、道内販売を決めている(道新 昭47・4・19、6・14)。このように中小メーカーは再編統合に向かい、大メーカーは多角化により清酒消費減退に対処していたのである。