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焼酎

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 北海道の焼酎消費は多く、道外メーカーも供給の一端を担っていた。その一つである三楽酒造(株)は三十一年六月に札幌市琴似に工場を建設する旨を札幌国税局に申請した。同社は年間約一万石の焼酎を道内で販売しているが、運賃負担をなくすためにも現地生産を希望している(道新 昭31・6・17)。そのころ国内最大の焼酎メーカー宝酒造(株)も札幌工場新設を申請し、国税局は、三十四年、宝酒造札幌工場(雁来)、三楽酒造札幌工場(手稲)に焼酎製造免許を与えた。これに対し、地元焼酎メーカーは、両社に誓約書を書かせている。内容は、不当な値引きをしないこと、昭和三十二年のシェアを超えて北海道で販売しないこと、などであった(サッポロソフト五十年史)。宝酒造札幌工場は、生産能力三〇〇〇キロリットル、三楽酒造札幌工場は手稲駅前、日本石油工場跡地に建設され、生産能力二四〇〇キロリットルであった(道新 昭34・12・31)。三楽酒造札幌工場は、四十年には焼酎、合成清酒、ウイスキー、甘味ブドウ酒、添加用アルコールを製造している(札樽工業開発に関する基礎資料Ⅱ)。
 地元企業である札幌酒精は、三十五年七月に七飯工場を協和発酵に売却し、焼酎生産を札幌工場(琴似)に集中した。これに伴い約九七〇〇万円かけて札幌工場の設備拡張をはかった。当時の焼酎業界は、きびしい出荷規制を続けており、出荷数量を増やすためには、他社との「基本石数」(割当)の譲渡や他社製品買い取り、詰め替え出荷などの苦労を余儀なくされていた。しかし、出荷規制基準がアルコール度数二五パーセントだったので、二〇パーセント製品を出荷すると数量は二五パーセント増加する。このため開発された新製品がサッポロソフトで、三十五年十月から発売された。三十八年からは一・八リットル瓶も発売され、出荷数量は三十五年に四九四キロリットルであったが、年々増加し、四十七年には三七三七キロリットルにまで達した(サッポロソフト五十年史)。