集排法により分割、成立した雪印乳業と北海道バターは、集排法失効(昭和三十年八月)前後から合併にむけて検討を行ってきた。ところが、雪印による酪農民への乳牛導入資金貸付が独占禁止法違反に問われるなど、公正取引委員会の監視の目はきびしく、合併は困難であった。両社と北海道経済連などからなる酪農振興協議会は、両社の株式を全面的に農協所有として協同組合連合会にするという構想も検討していた(道新 昭31・4・20)。独占とみなされたバターのシェアの問題に関しては、生乳の需要に限りがあり、生乳の生産量が工業製品のように調節できない以上、バターとして販売せざるをえない、という北海道の酪農事情を公取委も理解し始め、三十二年十一月には雪印乳業、クロバー乳業(北海道バターが改称)両社に合併の陳情書を提出するよう連絡があった。公取委は、翌年六月に現地調査を行い、七月に合併届出書提出を指示した。これは集排法による分割会社の初の合併のケースなので、八月二十二日、公聴会を開き、当事者、同業者、消費者、酪農関係者などを集めて賛成、反対論を聴取した。同業の森永乳業、明治乳業は最後まで反対したが、北海道の特殊性、酪農振興の必要が認められ、八月二十七日公取委の合併承認の見解が発表されたのである(雪印乳業史 第二巻)。
雪印乳業では、札幌、小樽における市乳事業を拡大するため札幌酪農牛乳(株)との提携をすすめていたが、三十五年両社の合併が決まり、雪印乳業札幌工場を総合工場として新築することを決めた。新工場は三階建鉄筋コンクリートでバター製造機、包装機、アイスクリームフリーザー、アイスステック充塡機、アイスモナカ充塡機などを揃え三十六年三月に竣工した(雪印乳業史 第三巻)。
なお、明治乳業は、三十四年十月、白石に市乳工場を完成させ、市乳一五トン、アイスクリーム四〇〇〇コート、ヨーグルト三〇〇〇本の処理能力をもっているという(道新 昭34・10・31)。牛乳は、中身よりも容器(びん)の方が重い商品だが、スウェーデンの製紙会社がテトラパックを開発し、製造機械を世界各地に貸し付け始めた。北海道では雪印乳業が、千歳の自衛隊向きにテトラパック牛乳を販売したが、不評でやめてしまった。三十八年に東京で、グリコ東京協同乳業、雪印東京工場がテトラパックを生産し、売れ行きも伸ばした。当初は一八〇cc一個当りコストがびんよりも二円高かったが、大量生産すれば割安になるはずという(道新 昭39・6・27夕)。