昭和三十年代(一九五五~六四年)、いわゆる経済の高度成長がおとずれた。もちろんそれは一本調子ではなく、景気変動の波とともに現れた。すなわち三十年から三十二年にかけての神武景気と、その後のなべ底不況を経て三十三年なかばから三十六年末まで続いた岩戸景気、そしてその後の証券不況である。
これらの大型景気あるいは高度成長の原動力となったのは重化学工業における設備投資であり、「投資が投資を呼ぶ」(昭和三十五年度経済白書)形で景気拡大が進んだのである。三十五年に政府が打ち出した所得倍増計画は、この傾向にさらに拍車をかけることとなった。政府は財政投融資を増大させ、日銀は低金利政策を実施して貸出を積極化した。しかしその結果、都市銀行においてオーバーローンが恒常化したため、日銀は三十七年十月「新金融調節方式」(貸出限度額の設定)を導入し、オーバーローンの是正をはかった。
三十二年、「準備預金制度に関する法律」によって準備預金制度が創設され、従来の公定歩合政策、公開市場操作とあわせ、いわゆる量的な金融政策の三つがそろうことになった。準備預金制度が初めて発動されたのは三十四年九月であり、岩戸景気に対するものであった。
三十八年にいったん回復した景気は年末の金融引き締めもあって三十九年には不況となり、三十九年十二月には戦後最高の倒産が発生するなど、その深刻の度合いが増した。そこで預金準備率や公定歩合の引き下げ等の金融緩和策を講じたが、四十年に入っても景気は回復せず、三月には山陽特殊製鋼、サンウエーブ工業等の大型倒産も発生するに至った。
岩戸景気末期には、「銀行よさようなら、証券よこんにちわ」と謳われた証券業であったが、その後の不況の中で株をはじめとした証券価格が下落し、証券恐慌の様相を呈するようになった。このような事態に遭遇して、「日本共同証券」(昭39・1)、「日本証券保有組合」(昭40・1)などが設立されたが、株式価格の下落は止まず、ついに四十年五月には四大証券のひとつ山一証券が破綻し、日銀は日銀法第二十五条を適用して昭和金融恐慌以来の特別融資を実施するに至るのである。