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電力危機の克服

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 北海道でも終戦直後には軍事大口需要の消滅により、一時は余剰電力を生ずるようになった。しかし、二十一年後半から需要が急速に回復するにともない、電力が不足して一部に使用制限が加えられるようになった。二十二年度からは異常渇水などの要因も重なり、重要指定産業を除く各産業、および一般電灯需用家に対して強い供給制限が実施されるようになるとともに、新規需要は極力抑制された。
 昭和二十三年度は、需要のさらなる増大と異常渇水が重なり、下期は雨竜貯水池の枯渇により、記録的な電力不足となった。二十四年度も制限が年間をとおして行われたが、十二月以降は降水に恵まれ、新規需要の強い抑制によって危機を脱した。とはいえ休電日制、緊急停電、ピークカット(緊急負荷遮断)、ローソク送電にともなう各産業、市民生活の麻痺状態はますます深刻化し、新規抑制を含めると年間制限量は約一億三八一〇万kWhに達した。二十五年度は一部発電所の増設や、自家用発電設備からの受電増加などにより、休日振替とピーク制限程度にとどめた。しかし、これも新規需要を強く抑制したうえのことであるから、根本的解決には程遠い状況であった。二十六年度は、いくつかの水力発電所や火力発電所の新増設があり、供給力は大幅に増加した。しかし、需要もさらに増加したため、制限を次第に強化し、一月以降に電力使用量の三割制限、休電日週二日という強力な法的制限を実施し、辛うじて急場をしのいだ。二十七年度は、九月からの電産ストに加え、十二月から大口工場の強力な負荷抑制や一般電灯線の連日のピークカットが行われ、一月下旬に二つの発電所が試運転を始めるまで厳しい需給状況が続いた(北のあかりを灯し続けて)。
 電力危機を札幌市に即してみると、記録的な電力不足となった昭和二十三年度の状況について、「冬期渇水期により受電量も制限を受け、電車用電力も割当量では不足の実情にあったので、節電に努めると共に関係官庁に対し増加割当の懇請を行った。又、市議会内にも電力対策調査特別委員会が設置された」(昭23事務)と述べられている。また、同年の『琴似新報』も、「節電に協力を」(10号、昭23・11・7)、「電力問題について」(11号、昭23・11・14)、「強力に節電を」(13号、昭23・11・28)、「電力危機は目前に迫る、一家一灯の確守」(14号、昭23・12・5)、「電力節減町民大会」(15号、昭23・12・12)、「手稲村電力自制会」(16号、昭23・12・19)、「電力事情益々悪化、制限強化に背水の陣」(51号、昭24・8・21)といった具合に、電力危機の様相を余すところなく伝えている。
 北海道電力の創設とともに、こうした危機的状況は次第に好転していくことになる。『北のあかりを灯し続けて』によれば、①緊急の課題として同社に課せられた電源拡充は、日本発送電と北海道配電から引き継いだ工事中の発電所を完成させることから始まったこと、②引継電源のほかに、同社としての新規電源の着工にも早々にとりかかり、この場合にも、開発地点の選定にあたっては短期間に完成できることを最重要条件としたこと、③同社設立以降、全社あげての電源新増設の努力により、昭和二十九年度末までに発電出力は創設時の約一・六倍に増加し、送・配電線については、電圧改善と電力損失低減のための線路新設や建替えを行い、変電設備も増強したことなどがあきらかにされている。
 こうして、昭和二十八年度には、雨竜発電所で設備事故があったため、夏期渇水期の八月中旬から大口需要家の休日振替を実施したが、然別第二・第三発電所が八月末に運転開始したために、九月十四日には電力制限を解消し、同社はそれ以降、オイルショックに至るまで再び電力制限を実施することはなかった。当時、電力制限の解消は地域社会から最も期待されたことであり、同社は、二十八年三月以降制限を解消した中国電力に次ぎ、電力会社中で最も早い電力制限解消の快挙を成し遂げた。