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白鳥事件裁判

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 白鳥事件で殺害謀議者として逮捕された(昭27・10・1)村上国治は、三十二年三月、死刑を求刑され、その後、第一審判で無期懲役、第二審は懲役二〇年、三十八年十月の最高裁判所で上告棄却となり、有罪が確定した。日本共産党中央委員会は、「白鳥事件不当判決に対する声明」を発表し裁判の不当性を訴えた。さらに、村上国治救援組織(白対協)は、現地調査や抗議集会などを繰り返し(表2)、刑の執行停止・再審を要求した。
表-2 白鳥事件現地調査・集会参加者
年月日参加者数
昭34・ 2・1050人
 35・ 5・31400
 36・ 1・20210
 36・ 1・21200
 36・ 5・21349
 37・ 1・21850
 38・ 1・19320
 40・ 1・23250
 43・ 5・25700
 43・10・31650
 43・11・ 2600
 44・10・10500
 47・ 1・21300
『北海道・進歩と革新の運動史年表』より作成。
他に釈放要求市民大会,釈放・再審要求全国縦断行進なども実施。

 村上に対する三度の公判では、証拠とされた白鳥警部の体内から出たとされる弾丸と幌見峠で試射されたとする弾丸の差異について、多くの疑問が出された。弾丸鑑定人であった磯部鑑定人は、「弾丸は自分で鑑定せず、アメリカ軍のゴードン曹長にあずけ、写真を撮ってもらったもの、自分の鑑定ではない」と証言し、警察庁の鑑定書には「同一ピストルから発射されたと認定するだけの発射痕の特徴は発見しえなかった」とあることが明らかになった。幌見峠で「中核自衛隊」によって試射されたとする弾丸が、腐食してないことにも疑問が生じた。岡本鑑定人が、「自分の鑑定が有罪の根拠にされたのは不本意」(昭43・1)と発言し、白鳥事件関連者として失職していた太田嘉四夫が北大に復職(昭43・12)したことも、白対協の運動に有利となり、村上国治釈放の声が広まった。
 四十四年一月には、北大理学部の戸苅助教授が、証拠弾丸は完全なにせ物であるという鑑定書を札幌高裁に提出したことから、科学者の中に裁判に対する疑問を表明する人が多くなった。しかし、六月十九日、札幌高裁は再請求を棄却した(日本国民救援会 嵐に抗して救援会50年のあゆみ 昭53)。村上及び弁護団は、ただちに「異議申立」を行い、村上は、十一月十四日仮釈放となり、一七年ぶりに出獄し、網走・札幌の歓迎会に臨んだ。四十六年五月、北大農学部で「裁判と科学」研究会が開催され、証拠とされた三発の弾丸について検討が加えられ、無責任な鑑定をする科学者に対する批判の声もあがった(日本国民救援会北海道本部 戦後北海道救援運動年表)。
 村上の「異議申立」に対し、札幌高裁は七月十七日、「事件全体が捜査機関のねつ造にかかるものではないかとの疑いも生じないわけではない」としながらも、「多数の関係者の供述により」との理由で村上を有罪とし、申請を棄却した(嵐に抗して 同前)。村上・弁護団はただちに最高裁に「特別抗告」の手続きをとった。最高裁は、五十年五月二十日、特別抗告を棄却したが、その決定理由のなかで、「もし当の証拠が確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとするならばはたしてその確定判決においてなされたような事実認定に到達したであろうかどうか」と確定判決に疑問を示した。だが、再審は実現せず、村上は平成六年(一九九四)十一月三日、事故で死去した(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟北海道本部 不屈二十年の歩み)。
 この長期にわたる白鳥事件(昭27・1)裁判は、証拠よりも証言を重視した裁判に問題を投げかけ、さらに占領下のレッドパージや国鉄総裁が不審な死をとげた下山事件(昭24・7)、列車転覆が計画された三鷹事件(昭24・7)、松川事件(昭24.8)などの全国的事件とともに、札幌における戦後最大の公安事件として社会的関心を集めた。