戦後の札幌で音楽会招へいに中心的な役割を果たしてきた札幌芸術協会は、全国的な労音運動の高まりに呼応し、昭和三十四年一月から札幌勤労者音楽協議会(札幌労音)としての歩みを始めた。
例会は当初はクラシックが主体で、藤原歌劇団や二期会(東京)によるオペラ上演や在京オーケストラの演奏会なども数多く手掛けた。やがて会員の希望の高まりからポピュラー音楽にも手を広げていった。三十六年十一月には全国会議で「基本任務」が採択されて民族音楽や伝統芸能がそのラインアップに加えられ、労働者が主人公の創作ミュージカルも登場した。しかしこうした傾向が、運動の担い手だった女性会員を離れさせる結果を招き、娯楽の多様化も相まって、会員数は四十年代前半をピークに減少していった。その時期にあっても、地元バレエ団参加によるガーシュイン「ポーギーとベス」(四十五年七月)やファリャ「三角帽子」(四十六年四月)など、意欲的な公演も行っていた。
一方、全国組織である民主音楽協会(民音)が三十九年六月から札幌でも活動を始めた。例会では全国巡演もののほか、札幌独自で、道二期会とタイアップしたモーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」(四十二年五月)上演も行った。
さらに、労音に対抗する形で、日経連の鑑賞団体である音楽文化協会(音協)が四十一年五月に設立され、ポピュラー音楽主体の例会を開いていった。