政府は昭和二十五年(一九五〇)四月に「電波管理委員会設置法」、同五月に「電波法」、六月に「放送法」と、いわゆる「電波三法」を公布した。「放送法」により公共・民間放送並立の新放送体制が、「放送局の開設の根本的基準」(同十二月公布)により放送局免許の方針が確立され、これにより民間放送発足の基礎が固められた。
電波管理委員瀬川昌邦ら一行四人は、二十六年一月十六日、施設の準備状況や機構調査のために札幌入りし、道との打ち合わせおよび北海道放送会社発起人との会見を行い、翌十七日にはスタジオや送信所その他の現地調査を行うことになっていた(道新 昭26・1・17)。この時一行は新聞記者会見で、視察の結果北海道は第一回分免許に入るかどうかははっきりといえないこと、民間放送に対する道民または札幌市民の理解と熱意がこれを左右することを考慮した上で、報道関係者、在札財界、金融界等が協力して新たな放送局を開設する心がけと機構が必要であると説いた(北海道放送十年史)。
特に、銀行からの出資の有無が免許の交付に影響することから、道新社長阿部謙夫は拓殖銀行役員会に出向いて民間放送の採算性について意見を述べた。ここでようやく銀行側の理解と出資が得られることとなり、北海道放送は予備免許獲得の条件を完備することができた。そして二十六年四月二十一日、民間放送に対する初めての予備免許が、電波管理委員会によって交付された。免許を申請した八〇数社のうち、与えられたのはラジオ東京、朝日放送(大阪)、中部日本放送(名古屋)、広島放送、仙台放送、北海道放送等一六局であった。
北海道初の民間放送となった北海道放送は、コールサインは「JOHR」、周波数は一二三〇キロヘルツで、送信所は札幌村元村に置かれた。放送区域は札幌、小樽、岩見沢の三市五六カ町村を主としているが、旭川、苫小牧、室蘭等も聴取区域にあり、聴取世帯は約三〇万と見られた(道新 昭26・4・22)。