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基幹交通体系の変化

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 昭和五十年代から六十年代にかけては、公共交通網の整備が相次いでいた。
 地下鉄は東西線琴似~白石間が五十一年六月十日、南北線は延長された北二四条~麻生間が五十三年三月十六日に開通し、東西線延長の白石~新さっぽろ間が五十七年三月二十日に開通する。これによって副都心の新札幌が鉄道、地下鉄による連接がなされ、東部地域開発が進展することになった。東豊線も栄町~豊水すすきの間が六十三年十二月二日に開通し、三本の地下鉄線がそろうことになる。
 鉄道は永年の懸案であった高架化工事が五十三年十一月より開始され、一〇年の工事を経て完工し、札幌駅も高架となって六十三年十一月三日に開業した。函館本線、札沼線の高架化によって一九の踏切が解消され、函館本線をはさんだ南北の格差も解消され、札幌駅北口地区の開発に弾みがつくことになった。新駅も沿線の宅地化と共に続々と生れ、森林公園(昭59・9)、星置(昭60・10)、百合が原(昭61・6)、平和・発寒中央・発寒・稲積公園・稲穂・新川・あいの里教育大学(昭61・10)の各駅が設置となった。

写真-2 開業した札幌新駅と解体中の旧駅ホーム(昭63.11.18)

 高速道路も、北広島~札幌南間が五十四年十月二十九日、札幌~岩見沢間が五十八年十一月九日に開通していた。
 これらによって市内外を結ぶ基幹交通体系が大きく変わり、市民の通勤・通学も従来とは異なる至便性を増し、特に雪害を受けやすい地上交通に対し、地下鉄は積雪期に大きな威力を発揮することになったし、沿線の開発を誘導していった。その一方で、地下鉄建設に投じた巨額な債務が重くのしかかり、交通局の経営を圧迫し、さらには市民への負担へと転化されていったのも事実である。