板垣市政は、原田市政によってすでに路線を定められた二つの大きな仕事にまず取り組まねばならなかった。一つが第一一回冬季オリンピック大会の開催であり、もう一つが政令指定都市への移行であった。
昭和二十二年(一九四七)五月三日に施行された地方自治法には特別市に関する規定が盛り込まれたが、三十一年の改正によって特別市制条項は削除され、府県から独立せず事務権限の一部を委譲される政令指定都市制度が成立した。「人口五十万以上」(地方自治法第二五二条)の横浜、名古屋、京都、大阪、神戸が指定都市とされた(大都市制度史)。
札幌市の人口は三十五年(一九六〇)五〇万人、三十六年の豊平町との合併によって六〇万人を超えた。原田市長は三十八年三月市議会第一回定例会で、現在の政府が人口一〇〇万人になってからでないと指定しない方針であること、財政措置なく都道府県の権限を与えられても「財政的な負担で…苦しくなる」と述べて時期尚早との考えを示したが、翌年三月市議会第一回定例会で、手稲町を合併すれば四十六年ごろに札幌市の人口は一〇〇万人を超す見込みであり、そのころに指定都市に移行することを示唆した(十二期小史)。