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鉄鋼

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 本節では、本社を札幌に置く製造業企業の主なものについて、その動向を紹介することにする。鉄鋼業は、鉄鉱石を原料として高炉で銑鉄を作り(製銑)、これを鉄鋼にする(製鋼)工場と、鉄屑を原料として電気炉(電炉)で鋼塊を作り出す工場とがある。前者を高炉メーカー、後者を電炉メーカーとよぶが、札幌では電炉メーカーである豊平製鋼が発寒鉄工団地で鉄鋼生産を行っていた。豊平製鋼は、昭和三十年代には炭鉱用を主とする産業車輌が製品の過半をしめていたが、石炭産業の衰退により、これに代わる製品として棒鋼に着目している。棒鋼とは、電炉で製造した鋼塊を圧延して作ったもので、ビルの鉄筋などに用いられる。圧延工程をもたなかった豊平製鋼は、昭和四十二年(一九六七)に川鉄商事の関係会社となり(四十九年からは川崎製鉄の関係会社)資金のメドをつけた上で、翌四十三年には待望の圧延工場を完成、稼働させた。これにより、四十四年度の同社製品の四分の三は棒鋼がしめることになった。
 四十年代後半のいわゆる景気過熱期には売上高も四十五年度の五五億円から四十九年度の一〇九億円へと急拡大したが、石油ショックとその後の低成長期は「鉄冷え」とよばれる鉄鋼業受難の一〇年間であった。売上高は停滞し、経常利益では五十年度から五十二年度にかけての三年連続赤字に加え、五十八年度、六十、六十一年度にも赤字を計上している(豊平製鋼社史編纂委員会 豊平製鋼半世紀の歩み 平5)。全国の棒鋼メーカーは、生産数量カルテルを結んで対処した。五十年九月に公正取引委員会は電炉メーカー等五三社による小型棒鋼の不況カルテル(減産協定)を許可した(道新 昭50・9・10)。この減産協定には道内では豊平製鋼、冨士工業宮坂金属工業が参加し、生産割当は全国毎月四〇万トン(生産能力の四割稼働)、このうち北海道は二万二六四〇トンであった(道新 昭50・9・21、50・9・26)。しかし棒鋼の安値と過剰在庫は解消されず、カルテルは期限を何度も更新し、五十二年八月には減産に加えて価格カルテル(最低販売価格を協定)も公取委から許可された(道新 昭52・8・17)。
 豊平製鋼は、五十一年には新型電炉(五〇トン)、連続鋳造設備、集塵装置などを新たに備え付け、大幅な省力化と公害防止を図った。建設需要に依存する棒鋼が不振だったなかで、札幌市営地下鉄東西線延長工事(白石・新さっぽろ間)で大量の棒鋼発注を受けた。それまでの地下鉄工事では本州高炉メーカー製品を用いていたが、品質が変わらず低価格だった豊平製鋼製品に切り換えたのである。長引く鉄冷えは六十二年に転機を迎えた。売上高は、平成二年度には二〇〇億円を突破し、経常利益も連年大幅黒字に転じたのである(豊平製鋼社史編纂委員会 豊平製鋼半世紀の歩み 平5)。
 この時期の製品は、たとえば建築向けに小型異形棒鋼を格子状に組んだFBリングなど高付加価値をねらったものが目立つ(道新 昭62・9・3)。平成八年十一月には鋼製橋梁部門で全国七社目の、十一年八月には鉄筋コンクリート用棒鋼部門で全国二社目の品質保証システム国際規格(ISO9001)を取得している(道新 平8・11・26、平11・9・1)。豊平製鋼は、戦後日本経済の荒波のなかで炭鉱機械メーカーから高付加価値型鉄鋼メーカーへと転身を遂げたといえるだろう。