この間(昭和六十一~平成十二年度)、日本経済はバブル経済からその崩壊へと大きく転換した。金融面においては自由化・国際化が大きく進展した。主なところでは、譲渡性預金(CD)の発行単位の小口化や市場金利連動型預金(MMC)の最低預入単位の引き下げ等が一層進展し、平成五年(一九九三)六月には定期性預金金利が、翌六年十月には当座預金を除く流動性預金金利が完全に自由化された。さらに金融制度改革の総仕上げとして八年十一月、橋本内閣によって日本版ビッグバンが提唱された。また十年四月からは早期是正措置が導入された。このような金融の自由化・国際化の進展は、同時に金融機関にとっては競争の激化を意味した。中小の金融機関の破綻(平成六年:東京協和信組、安全信組。平成七年:コスモ信組、木津信組、兵庫銀行等)はすでに生じていたが、九年に入ると金融の危機的様相は一気に深まった。すなわち四月には日産生命が破綻し、十一月には三日に三洋証券が破綻、この時コール市場初のデフォルト(債務不履行)が生じ、短期資金の取り入れは極めて困難となったこともあって、ついに十七日、北海道拓殖銀行が破綻した。翌週の二十四日には証券大手の山一證券が自主廃業し、翌十年には日本長期信用銀行と日本債券信用銀行が破綻、一時国有化された。当時の大蔵大臣の「大手二十行は潰さない」という公約や「ツービッグ・ツーフェイル(大きすぎて潰せない)政策」にもかかわらず発生した拓銀の破綻は、初めての都市銀行・大銀行の破綻となり、戦後の金融行政の特徴であった「護送船団方式」の終焉を告げるものとなった。