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手形交換高と証券取引状況

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 先の表4によれば、札幌における手形交換枚数は昭和六十一年(一九八六)の約六二一万枚からほぼ一貫して減少傾向をたどり、平成十二年(二〇〇〇)には約三四五万枚(マイナス四四・五パーセント)となった。金額は一一兆七五五六億円から次第に増えて、二年には一四兆四一六一億円となったが、その後は一貫して減少し、十二年には六兆七六七七億円(マイナス四二・四パーセント)となった。一枚あたり金額はほぼ二〇〇万円台であった。不渡り率は〇・〇二三パーセントからバブル期には〇・〇〇六パーセントまで低下し、バブル崩壊後は〇・〇二九パーセントまで上昇したが、十二年には〇・〇一五パーセントとなっている。この間、全国の交換高も二八八二兆四九一〇億円から一〇五二兆三三八〇億円にマイナス六三・五パーセントへと札幌以上に低下している。この原因はバブル崩壊後の長期不況、金融再編による行内交換増(本交換減)および交換所を経ない決済システム(全銀システム)への転換に求められるものと思われる。札幌の全国(全銀システム取扱高を含む)に占める割合は昭和六十一年の〇・三パーセントから平成十二年には〇・二パーセントへとやや低下した。
 次にこの間の札幌証券取引所(札証)の取引状況を先の表5でみることにしよう。札証における売買株数および代金は約一億二四五七万株、七五七億円から次第に増加していくが、バブル崩壊後は三年の約一億一二九五万株、一二三三億円を底にいったん増勢に転じたが、七年の約三億三六〇二万株、三〇七六億円をピークとして十二年にはわずか約二七五三億株、二〇六億円にまで減少している。東証との比較では依然として微々たるものであり、最高で七年には売買株数代金とも東証の〇・三七パーセントとなったが、十二年は株数で〇・〇二パーセント、代金で〇・〇一パーセントを占めるに過ぎないものとなっている。なお十年の減少は、北海道拓殖銀行の破綻の直接的反映であり、また十二年の激減は東証とのいわゆる「つなぎ取引」を主な業務としてきた日本協栄証券の脱退と日本公認会計士協会による保有株式のいわゆる「益出しクロス取引」の損益計上禁止措置(十二年九月)によるものである。
 設立以来の札証への上場会社数は昭和五十二年の一九五をピークとするが、その後やや減じつつ、六十一年の一八八を底に平成七年には一九四となったが、十年からは上場よりも上場を廃止する会社数が上回るようになり、十二年(九月末)には一八七に減少した。十二年四月、東証のマザーズ、大阪証券取引所(大証)のナスダック・ジャパンのようなベンチャー(新興)企業向け新市場が札証においてもアンビシャスという名称でスタートした。しかし新潟および広島証券取引所の東証への統合(十二年三月)や京都証券取引所の大証への統合(十三年三月)、インターネット証券取引の拡大、上場廃止企業の続出など、札証にとって環境はますます厳しさを増しており、再生をかけた模索が続けられている。
 札証会員には、この間、次のような異動があったが、これもまためまぐるしい金融再編の状況を示すものとなっている。すなわち日本勧業角丸証券は二年十月、勧角証券に、さらに十二年十月、みずほインベスターズ証券に商号変更した。十年三月、山一証券が、十月、東宝証券が自主廃業のため、十二月、三洋証券が会社更生法適用申請により脱退した。また同年三月、コスモ証券、七月、第一証券、翌十一年十一月、日本協栄証券がそれぞれ札幌支店を閉鎖した。十二年四月、山種証券は神栄石野証券と合併し、さくらフレンド証券に、新日本証券は和光証券と合併して新光証券に、ユニバーサル証券は太平洋証券、東和証券、第一証券と合併し、つばさ証券にそれぞれ商号変更した。同時に、和光証券、太平洋証券が脱退した。東京証券は十二年十月、東海丸万証券と合併、商号変更して東海東京証券となった。こうして十二年十月現在の札証会員は次の一一社である。
 上光証券、みずほインベスターズ証券、野村証券、日興証券、大和証券、さくらフレンド証券、新光証券、国際証券、東海東京証券、つばさ証券、岡三証券(札幌証券取引所50年史)。