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石油危機と北海道電力(株)

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 昭和四十年代における北海道電力株式会社(以下、北電と略)の経営は、三十年代半ばから始まる日本経済の高度成長により電力需要が引き続き拡大していた。しかし、四十八年(一九七三)十月の第四次中東戦争を契機とする第一次石油危機は、日本経済はもちろんのこと北海道経済にも大きな打撃を与えると共に、エネルギー産業としての北電の電力需要も大きく落ち込むこととなった。当時の状況は、「(四十八年の)道内の電力需要は上半期は活況を見せたが、下期に入って石油危機による節電、総需要抑制、金融引き締め政策による産業活動の停滞、民生、業務用電力の節電ムードから急速に需要は落ち込んだ」(北海道年鑑 昭和五十年版)と記されている。このことは、当然のことながら北電の経営にも大きな影響を与えた。翌四十九年四月、北電は二十九年以来据え置かれていた電気料金の値上げに踏み切り、平均四八・四一パーセントの値上げを申請したが、上げ幅は四三・三三パーセントに圧縮して認可され、六月一日から実施された。
 この電気料金の値上げは、石油危機による発電燃料の高騰を理由にして全国の九電力会社が一斉に申請したものであるが、とりわけ北電の場合は、前述のように過去二〇年間一度も値上げしていなかったことによる経費増に加えて、北電の主要燃料である石炭の大幅値上げが絡んでのものであった(前掲書)。
 では、北電はそれまでの二〇年間なぜ一度も料金を値上げすることなく経営を維持できたのだろうか。第一の理由は北電自身の経営努力であるが、それだけではない。第二に挙げられるのは、北電が産炭地に立地しているために石炭火力開発を重点的に推進し、その分だけ他の電力会社に比べて燃料費の負担が軽減されたことである。そして、四十年代以降、「油主炭従」というエネルギー革命の進行によって国内炭を保護する必要に迫られた政府は、電力会社や鉄鋼会社に石炭の政策的引き取りを要請した。電力会社の場合には、引き取るべき国内炭の大部分を産炭地の電力会社が引き受け、その代わりに非産炭地の電力会社は炭価調整基金を産炭地の電力会社に支払うことで対応した。
 この制度は四十二年度からスタートしたが、九州電力が四十五年度に火力発電中心の油主炭従の方針に踏み切ったため、炭価調整基金の多くは北電が受け取る結果となり、このことが、北電の経営に有利に作用したのである。だがこの制度は四十八年に廃止され、同年の石油危機の影響もあって、翌年北電は電気料金値上げという選択を行ったのである(北のあかりを灯し続けて―北海道電力五十年の歩み 第三章 平13)。