北海道瓦斯(株)(以下、北ガスと略記)は、北海道で最初の都市ガス事業を経営する会社として明治四十四年(一九一一)六月に設立されたが、東京瓦斯常務取締役久米良作等が中心となって設立されたために本社は長く東京に置かれていた。事業地である札幌市(この他、小樽市と函館市も事業区域)への本社機能の移転は戦後の昭和三十八年のことであるが、歴代の社長・副社長には東京ガスの関係者が就任し、札幌に常駐していなかったことから「東京ガス北海道支店」・「東京ガスによるリモコン経営」などと呼ばれる状態が四十年代に入っても続いていた(道新 昭49・10・24)。トップが札幌に常駐しない北ガスの経営体制が根本的に見直されるきっかけとなったのは、四十九年になって、ガス料金改定に絡む混乱とガス熱量の変更に伴う作業上のミスから札幌市内で多数のガス中毒事故が発生し、七人の死亡者を出す事件を引き起こしてからである。
すなわち四十八年の第一次石油危機は、都市ガスの原料となるナフサがキロリットルあたり一〇〇〇円前後も上昇したことから、もともと経営基盤の弱かった道内ガス会社の経営は悪化した。相次ぐ原油・石油製品価格の高騰によって、四十九年に入ると各社は都市ガス料金の値上げに踏み切り、北ガスの場合は、一月に二七・六六パーセント値上げしたのに続いて、八月三十日に六二・三三パーセントの大幅再値上げを札幌通産局に申請した(北海道年鑑 昭和五〇年版)。十月十四日に開かれた北ガス料金値上げに関する通産局の公聴会は、値上げに反対する札幌地区労や学生の動きに備えて警察の機動隊が厳重に警備する中で行われ、公聴会を実力で阻止しようとした学生が多数逮捕される異常な事態となった(道新 昭49・10・15)。
一年間に二度のガス料金値上げに踏み切った北ガスに対し、八月二十六日板垣武四札幌市長は、「北ガスが再値上げするなら、市は同社との報償契約を破棄して道路占用条例を改正する」という方針を明らかにし、この改正案は十月十二日の市議会建設委員会で可決された(道新 昭49・10・13)。大正元年(一九一二)に当時の札幌区長と北海道瓦斯(株)との間で結ばれた「ガス報償契約書」は、その後も改定されて存続していたが、その第五条第二項には「札幌市におけるガス料金を引き上げるとき」は「あらかじめ市の同意を得なければならない」という規定があり(北海道瓦斯55年史 昭41)、昭和四十九年八月の再値上げ申請はこの契約に違反するものだった。こうした理由から、板垣市長は北ガスとの報償契約解除の方針を明らかにし、十月十七日の札幌市議会本会議で原案どおり可決された(十三期小史 昭50・3)。
このような状況に加え、北ガスが十月十六日から札幌市内で三六〇〇キロカロリーから五〇〇〇キロカロリーに熱量変更した新ガスの供給を開始したところ、北ガスが実施した家庭のガス器具調整が不十分だったため、十月二十二日までに一〇件(死亡七人、中毒一二人)のガス中毒事件を引き起こした(道新 昭49・10・31)。警察は北ガスの刑事責任を追及し、翌年二月、事件当時の専務以下の幹部一六名が業務上過失致死容疑で起訴され、札幌地検に書類送検された。
この連続ガス中毒事件の発生をきっかけにして、北ガスの社長が東京ガス会長を、副社長も東京ガス副社長を兼務して共に東京に在住しているという経営体制への批判が高まった。十一月になって北ガスは経営陣を刷新、社長・副社長は共に退陣して新たに元東京ガス工務部長で都市エネルギー協会の常務理事が札幌常駐の社長に就任する方針を公表した(道新 昭49・11・12)。しかし、社長は東京ガスから迎えるという状況はその後も続き、創業七九年にあたる平成二年、ようやく同社生え抜きの佐々木正丞社長が誕生し、東京ガスから自立した経営への第一歩を踏み出したのである。
なお、一連のガス中毒事故に対する補償費支払いで同社の経営は急速に悪化、昭和五十年三月期には累積赤字が約二〇億円、借入金が九〇億円に達したため、同社は函館営業所を分離して東京ガスに売却した。函館営業所は、その後東京ガスとアジア石油・三菱化工機の三社で設立した新函館都市ガス(株)として出発したが(北海道年鑑 昭和52年版)、五十年代の料金改定で経営の安定した北ガスは六十一年四月に同社を吸収合併し、北ガス函館支社と改称した(道新 昭61・4・1)。その後、平成に入ると北ガスの営業区域は拡大し、平成九年には千歳市からガス事業を譲り受けて千歳支社を開設した。