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「いのち」「くらし」を守る活動を続けて

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 北海道母親大会の発足(昭33)も市史5上に述べたが、世界大会日本代表の一人多嶋光子が長く実行委員長を務めた。教育、生活、平和など三つの柱で二〇余りおかれる分科会に、近年でも二〇〇〇人前後の参加がある。全道灯油プロパン値上げ反対(昭49)、北炭夕張新鉱災害支援(昭57)活動など積極的に参加した。札幌周辺の「基地めぐり」(昭54)や、「被爆50年」(平7)企画も設定された。豊平区でも昭和四十七年から大会を開き、区に夜間救急センター設置請願などを取り組んだ(北海道母親運動四〇年のあゆみ、北海道母親大会議事録・報告集)。
 母親大会を支えてきた組織の一つ北海道平和婦人会(昭29発足)は、五十年に高教組(北海道高等学校教職員組合)婦人部など四一団体に呼びかけて国際婦人年北海道実行委員会を結成、十一月に集会を開き、国際民主婦人連盟主催の「国際婦人年世界大会(ベルリン)」に参加した米原美智子(婦団連国際部長)を招いた。「北海道婦人行動計画」策定に対しては一二六項目の要望書を、「札幌市婦人行動計画」準備に対しては一〇三項目の要望書を提出し、平和問題の視点が欠けているなどと指摘した(平和婦人会40年のあゆみ、国際婦人年北海道実行委員会の歩み)。
 また母親運動から生まれ、これを支えてきた組織に新日本婦人の会がある。三十七年に札幌支部と北海道本部が発足し、脱脂粉乳給食反対(昭39)、老人医療費無料化(昭46)などさまざまな活動を展開した。また社会・職場・家庭における三つの平等実現をめざし、平和婦人会や道労連婦人部などと「はたらく婦人の全道集会」開催にあたってきた。「北海道男女平等参画推進条例」制定にも積極的に意見を述べた(創立40周年記念誌)。
 北教組婦人部は日本婦人会議北海道本部と共に四十七年、道母親大会連絡会から離れ、「北海道母と女教師の会」(昭31発足)の活動を継続する一方、「いのちとくらしを守る全道婦人集会」「はたらく婦人の北海道集会」に協力してきた。
 札幌市母と女教師の会(昭30創設、平5より母と女性教職員の会)はしばらく全市集会と国際婦人デーの講演のみ行っていたが、五十四年から分科会や区のつどいも開き、「女子教育・女性問題」の学習を深めた。また給食と関わる食品公害や合成洗剤、環境問題、さらに障害児教育について取り組み、市教委や市議会を傍聴し、学校における男女混合名簿使用や給食自校方式などを働きかけた(札幌市母と女性教職員の会40周年記念誌)。
 「いのちとくらしを守る全道婦人集会」は、四十七年三月、道主婦協と全道労協青婦協が炭鉱閉山、高物価、健康保険法改悪に抗議して道庁前で総決起集会を催したのに始まる。五十二年には一〇〇〇人が参加、全電通の「労基法と私たちのたたかい」や、婦人会議の「国内行動計画に対する私たちの考え方」などの報告があった(北を育てる主婦協35年のあしあと)。
 日本婦人会議の札幌支部は三十八年、北海道本部は三十九年に発足した。道本部の活動として「医療一一〇番」の開設と対道交渉は注目された(昭53)。六十二年、全道労協婦人協議会や北海道母と女教師の会連絡協議会と共に「北海道婦人行動計画」(昭53)に続く「北海道女性の自立プラン」(昭62)の推進協議会に加入した(婦人解放へのあゆみ、はばたき 12号)。札幌支部は公立幼稚園設置の請願(昭52)や、合成洗剤追放の直接請求(昭59)など市議会に行うのと並行して、反原発や雇用平等法制定への行動に取り組んだ(飛翔)。