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車粉公害の推移

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 本巻の時代に、札幌市で大きな問題となった公害は、車粉公害である。
 札幌の春の道路清掃は、年中行事であった。しかし昭和四十八年度末の五割以下であった舗装率が、五十年度末には七割を占めていたにもかかわらず、主に未舗装道路からタイヤについて運ばれる泥と考えられていた降下ばいじん量は五十年四月になっても四十五年四月とほとんど変化していなかった。五十一年春に、それらのこととともに、舗装道路の表面が毎年一センチメートル削られていること、自動車の増加により冬用のスパイクタイヤによる道路が摩耗していることが注目された(道新 昭51・4・10夕)。同様の問題は、根雪が遅かった同年十二月に、道路にひかれた道路標示が削られて消えてしまう現象として現れた(道新 昭51・12・14夕)。これらは冬のスパイクタイヤ使用のため、道路のアスファルトなどを削り、粉じん化していることを示していた。やがてその粉じんは乾燥と強風により宙に舞い車粉公害を起こすようになった。
 そのため、五十四年度から道路端堆積物及びアスファルト舗装材の成分分析、浮遊粉じん中の浮遊粒子状物質量、浮遊粒子状物質の粒径分布などの調査を試行錯誤的に実施し始めた。その結果、五十七年には、道路端堆積物の七割がアスファルト粉であること、冬期に降下粉じん量が増加していること、同じく冬期に浮遊粉じん量が圧倒的に増加すること、などが明らかになってきた(公害対策 昭58)。これらの調査の継続により、初冬期と初春期のスパイクタイヤによるアスファルト摩耗がアスファルト粉じんの原因であることが判明し、五十八年四月一日から「スパイクタイヤ使用期間制限に係わる指導基準」を施行した。スパイクタイヤの使用制限は、はじめ四月二十日~十一月二十日であったが、五十九年に四月十五日~十一月二十日、六十年には四月十五日~十一月三十日と改定・強化された。また市民へのPRを強め、有効と判断された道路清掃を強化した(公害対策 昭59)。さらに六十年から六十三年までスタッドレスモニター制を導入して、スタッドレスタイヤ購入者へ、アンケート回答を条件に補助金を支給した(広報 昭60・11、道新 昭63・12・8など)。
 一方、市民は、札幌市の呼びかけに応じてスパイクピンの抜き取りなどに協力した。さらに札幌市のアンケート調査への回答によると、スパイクタイヤの強い制限を求めるとともに、厳冬期にスパイクタイヤを使用する以外は、初冬期と初春期はピン抜きタイヤを利用するという市民も現れた(道新 昭60・4・21)。また新聞紙上でも車粉問題を特集で取り上げ、車粉撲滅のキャンペーンを行った。例えば北海道新聞の場合、五十八年三月六日から「スパイクタイヤを考える」を二六回連載した。また北海道や東北六県、長野県などの市民、弁護士グループが大手タイヤメーカー七社を相手にスパイクタイヤの製造販売中止を、総理府の公害等調整委員会に申し立てた。六十三年には、スパイクタイヤの製造は昭和六十五年十二月末まで、販売は六十六年三月末までという調停が成立した(道新 昭63・6・3)。
 このような動きのなかで、札幌市は、六十二年(一九八七)四月一日から「札幌の街を車粉から守るためスパイクタイヤの使用を規制する条例」を施行して、スパイクタイヤの使用を規制するとともに、スタッドレスタイヤの普及促進を図り、道路清掃を強化した(公害対策 昭63)。さらに六十三年度に札幌市は、独自に「車粉アメニティ基準」(一時間一平方メートルあたりに降下する車粉量が二〇〇ミリグラム以下であること)を設定して、月寒中央と北一条の観測局で測定を開始した。初年度の六十三年度の十一月~三月には、基準を超えていた日が月寒中央、北一条とも五四日であったが、平成元年度には二二日と二六日に激減し、二年度一〇日と八日、三年度は三日と二日に減少していった(公害対策 平1~4)。二年六月には「スパイクタイヤ粉じんの発生の防止に関する法律」が制定され、三年四月一日からスパイクタイヤの使用が禁止されたことに伴い、「札幌の街を車粉から守るためスパイクタイヤの使用を規制する条例」は廃止された(道新 平3・9・21、広報 平3・10)。