薬害被害は再び繰り返された。薬害エイズは、HIV(エイズウイルス)に汚染された米国製非加熱濃縮血液製剤を治療薬に使用した日本の血友病患者のうち、四割にあたる約二〇〇〇人がHIVに感染させられ、二次感染者をも生んだ大規模の薬害である(北にはばたく)。
昭和六十年三月、厚生省は男性同性愛者を日本での最初のエイズ患者と発表した。米国では同年六月に非加熱製剤のHIV汚染が明らかになり製造を禁止したが、この時点で厚生省が回収しなかったことから血友病患者への被害が拡大した。六十一・六十二年一月と連続してエイズ感染者と死者があり、そのうちに性風俗産業で働いた経験を持つ外国人女性が含まれていたことを報道したことから、国内はパニック状態となり、札幌市中央保健所には、六十二年一月二十一日の一日だけでエイズ電話相談が一〇〇件に達し、そのうち九割は男性であった(道新 昭62・1・22)。
六十二年一月、厚生省は二次感染防止のため法制化を表明し、三月にエイズ予防法案を公表した。予防法案は、医師に患者・感染者の性別・年齢・感染原因を知事に報告することを義務づけるとともに、多数の者に感染させる恐れのある者については、その氏名・住所を知事に通報することであった。これに対して①人権侵害とプライバシーの脅威になる。②検査のみの実施よりも治療体制の確立が急務であり、蔓延に役立たない。③エイズに対する偏見をあおり差別を助長する、と全国的に反対運動が湧き起こった。北海道ヘモフィリア(血友病)友の会や難病連は、札幌市長や知事宛に「北海道におけるHIV感染症に対する要望書」を提出し、学校や職場で血友病患者は差別され、隔離の恐れさえあると理解を訴えた(北にはばたく)。エイズ予防法は、法対象から血友病患者を除外する修正案により六十三年十二月二十一日、国会で成立し、平成元年二月施行された。
一方、全国各地の薬害エイズ被害者の救済を目的として、平成元年十月に東京HIV訴訟が提訴され、初めて北海道在住被害者二人が原告として加わったのは、平成三年の第三次訴訟(提訴後死亡)である。五年には「北海道HIV訴訟を支援する会」が発足し、六年、「血友病治療の権威」であった阿部英・元帝京大教授が六十年に部下の医師に指示し、HIVに感染した輸入非加熱血液製剤を血友病の患者に投与、平成三年に死亡させたとする業務上過失致死罪で東京地検に告発された(道新 平16・2・23夕)。HIV訴訟のイメージを一新したのは、原告の一人川田龍平が実名を公表してマスコミで訴え始めたことによる。若者の共感を得て、社会的にも支援行動が拡大した。八年に菅直人厚生大臣が法的責任を認め原告に謝罪、三月に初の和解が成立した。
八年六月、札幌地裁で地元提訴が初めて開始され、九年十月の第九回期日で北海道HIV訴訟は一応の終結となった。この間、札幌地裁で和解した原告は六二人、そのうち二三人が死亡した(北にはばたく)。
札幌市ではエイズ予防対策に五年から抗体検査の無料化、および六年以降は結果の告知期間の短縮とエイズ相談専用電話を設置した。この間、市民と一体となって予防対策を推進するために五年六月二十四日、エイズ対策推進協議会を発足させ、エイズの知識普及や対策の具体的施策、予防に関する企画や実践方法を協議し、「札幌市エイズ対策推進協議会設置要綱」を施行した。相談件数は十一年度以降十三年度までは年間一五〇〇件前後、抗体検査は夜間・休日検査を含めて九〇〇件前後で推移した。エイズ予防法が施行されて以降、毎年の新感染者は五年五人、六年四人、八年三人と減少したが発症した患者数全体では六人である。二桁台になるのは十年の新感染者七人、既患者四人を加えて患者全体では一一人となり、不特定異性間性交渉の増加と共に、今後はエイズ感染者の増加が予想される(平11年4月以降は新感染症法に改正、第三節参照)。市保健所は、「患者や感染者と日常生活を共にしても、エイズがうつる心配はなく、エイズは誰もが感染する可能性のある普通の病気です。患者や感染者を差別しないでください」とエイズ情報に明確に記載した(http://www.city.sapporo.jp/hokenjo/ 平16)。
この間、七年に新薬が続々と開発され、エイズ治療法は画期的に進歩し、もはや死に至る病ではなくなった。