また、法の下の隔離政策で数え切れない悲劇を生んだのがハンセン病である。
ハンセン(らい)病の強制隔離政策は、「癩予防に関する件」(明40)以来、「癩予防法」(昭6)に引き継がれ、戦時下は「無癩県運動」さえあり、住民にらい患者を発見・通報させ地域から療養所へ送ることを競わされた。第二次大戦後に菌発見者のハンセン氏病に改称されたが、新憲法に唱われた基本的人権の確立からも排除され、「優生保護法」(昭23)は患者に「断種」「避妊」の優生手術を認めた。画期的なプロミンが開発(昭18)され、同薬は昭和二十二年以降配給となり治療効果を発揮し、発病力と感染力は弱まり他者に感染させる病ではなくなった。だが、「らい予防法」(昭28・8)は隔離構想をさらに継承した。らい学会関係者に変化が現れ始めたのは、四十九年、多数の医師が海外のハンセン病協力事業へ派遣され、日本の隔離政策は国際的に孤立しているとの認識を深めたころである。一方の入所者は、昭和四十年代は社会復帰しても療養所外の生活に対しての不安が強いため、むしろ療養所内の衣食住の処遇改善を望む声が強かった(戦後日本病人史、らい予防法廃止の歴史)。
北海道の患者は道内に療養所がないため、明治期から本州の療養所に入所した。平中忠信・北海道らい協会理事(現道ハンセン病協力会)によると、五十五年ころは道内出身者一二二人の患者が全国七カ所の療養所に入所しており、東北六県と北海道で連合立した青森県松丘保養園には約七〇人近い入所者が生活していた。毎年桜の開花時期に協会ボランティアが訪問した。多くは少年少女の頃に入所したため、故郷の家族・友人との関係が途絶している人がほとんどで、故郷の様子や思い出話を話し合うことが心を和ませたという。戦前は貨車に乗せられて巡査が引率し、戦後は道庁の係官に引率されて入所していた。なかには療養所生活が数十年間にわたる人もいた。五十五年当時、園内の住居は貧しく、各宗教の寺院やキリスト教会が建ち、中心地には納骨堂があり何千体の故郷に帰れない骨箱が納められていた(北の青嵐第一〇三号)、という。
平成三年、全国患者協議会が「らい予防法改正運動」を激論の末採択したのに続き、七年、日本らい学会は反省声明を表明した。八年、菅直人厚生大臣が「らい予防法」廃止の遅れを患者に直接謝罪し、同年三月二十七日ハンセン病患者を長年苦しめてきた「らい予防法」がようやく廃止された。十年、療養所入所者が熊本地裁に国に対しての賠償訴訟を提訴、十三年五月に熊本地裁が原告全面勝訴を判決し、国側は控訴せず、六月にハンセン病補償法が成立し、法の下での「人間性の回復」が実現した。(戦後日本病人史、南日本放送ハンセン病取材班編 ハンセン病問題は終わっていない)。