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教員の研究実践活動

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 Y教師は昭和五十二年四月より中央区のK小学校に赴任した。K小学校は教育研究の伝統があり、教育実践をリードしてきた学校である。二年に一度、公開授業を含む研究大会を学校独自で開催していたが、Y教師が在職中に校舎建築があり、開催するか否かで学校内で意見が分かれたという。Y教師は、十月から教頭となり、開催するという意見を強調した。なぜなら、「もしやめたら、その流れで『三年に一度』などと安きに流れる結果」になると思ったからである。「反面で『研究大会の当日だけうまく授業すればいいのだろう』といった意識の教師もいた」。「夜の仕事をもつ母親が多く、父親がいない家庭もあった」が、それに対して「生活ぶりの把握や子どもの心の問題の把握といった、いわゆる学級経営が十分でない場合もみられた」という。
 のちに、Y教師は校長として再びK小学校に復帰することになるが、その際には、『Kの教育課程』という学校教育のより所となるべき計画の改善に乗り出した。復帰した際にY教師が驚いたのは「十年前に自分が教頭として書いた文章が、そのまま残っていたこと」だと言う。校長としての一年目後半から、Y教師が教育課程編成の一係として内容の原案を作り、子どもと学校、地域の実態に即するためにアンケートなども行い、順次会議にかけて作成していった。「第三者的な記述をするのではなく、各教職員が自分は何を受け持っているのかの目標と責任が果たせるような内容にすること、冊子の内容を可能な限り簡潔にし、六十頁以内に納めること」などを条件に作成していった。学校独自の教育実践には、公開授業や研究大会などで学校を公開して第三者の意見を聞くこととともに、その足元である学校そのものの教育課程の不断の見直しが重要なのである。