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私立小・中・高等学校の動向

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 昭和四十七年度において、市内には私立の小学校が二校、中学校が五校(一校は休校中)、高等学校が一九校あった(表3参照)。都市部でありながら小・中学校の数が少なく、またほとんどの小・中学校が系列の高等学校を有していることに特徴をもつ。

表-3 札幌市内の私立小・中学・高等学校の変遷

 市では、私立の高等学校数が多く、私学依存度がきわめて高かった。同年度の生徒数を公立と私立で比較すると、一万七六二六人対二万一八九三人であり、四五対五五という私学優位の数値が出る。高校へ納める初年度納付金は五十二年度段階で私立が約三〇万円で、公立の約四万円の約八倍にも達した。親の負担は大変大きく、同年秋に、私教組・札教組・高教組・札幌地区労など二五団体が参加して「札幌私学助成をすすめる会」が結成された(道新 昭52・11・6)。同会は私学助成条例の直接請求運動を展開した。直接請求では五十二年十一月十日からの一カ月の間に一九万一四一人の有効署名が集まり、請求に必要な署名数を大きく超えた。本請求をうけた板垣武四市長は五十三年二月八日に第一回臨時市議会を招集し、意見書を付して条例案を提案した。意見書は「本市としての立場のなかで可能な限り各種の助成措置を講じ、かつ、これを増額してきた」が、私学助成については「基本的には、国及び都道府県の措置」であるとして、条例案制定に賛成できないというものであった(十四期小史)。この審議は文教委員会に付託されたが第一回臨時市議会では継続審査となり、二月二十三日から招集された第一回定例市議会で第一予算特別委員会に付託がえとなった。結局三月二十四日、委員会において採決が行われ、賛成少数で否決された。ただし五十三年度予算では私学助成は大幅に増額となった。その後六十年度に私立高校への初年度納付金は四〇万円を超えた。のちには公立の授業料値上げなどで、公私の格差は、平成十四年度に三倍程度となった(道新 平14・5・6)
 公私生徒数の比較数値はその後、公立の割合が増えることになった。昭和五十五年の数値は五七対四三、六十年の数値は六七対三三となる。さらに市内の高等学校生徒数が一番多かった平成二年度には四万九六五一人対二万二七一九人で六九対三一となった。これは高校生の急増期にあたり、市内に数多くの公立高が新設され、学級数も増えたことによる。一方で、私立校の数はほとんど増えなかったことも関係している。私立の校数は二年度において二〇校である。高校生急増のピークが過ぎても、比較数値はそれほど大きな変化はなかった。七年度には六八対三二となり、十四年度には七〇対三〇である。
 中・高校生の急減期に対応して、私立校の改革もはじまった。昭和六十一年度には私立中学二校が新設された。ともに中高一貫システムを取ったものであった。また男女共学化をすすめる高校もめだった。六十一年度の札幌商業高校にはじまり、六十三年度には北海道栄養短期大学附属高等学校札幌明清高等学校に、札幌香蘭女子学園高等学校札幌山の手高等学校に名称変更してそれぞれ共学化した(表3に私立学校の変遷あり)。平成十一年度には道内でもっとも歴史の古い北海高等学校が共学化した。十四年度には三〇年ぶりに私立高校の全道統一入試日程の原則が崩れた。同年度は室蘭の一校のみであったが(道新 平13・2・15)、翌十五年度には全道において一般入試を二回設定する「複数日程方式」入試が実施された(道新 平14・1・17夕)。