これを受けて、市議会での議論がはじまった。文教委員会で採択されたものの、市議会には「学識経験者を委嘱し研究をすすめている」という報告のみで終わった。四十二年十一月に市は「札幌市建設五年計画」を公表したが、その中には「民間幼稚園の設置を奨励し、…助成を行なうとともに、公立幼稚園についても学識経験者の意見を徴し、必要な措置を行う」とあった。ここに民間幼稚園、すなわち私立幼稚園に関することが言及されているのは、公立幼稚園の設置によって、私立幼稚園の経営が圧迫されないかという危惧があったからである。実際、のちに公立幼稚園が東橋に内定される際には、私立幼稚園経営が圧迫されるという理由で、場所を変更せよという陳情も出ている。また、公・私立授業料の差を少しでもなくすために、私立幼稚園への助成問題が浮上した。これについては後述する。
四十二年十二月、学識経験者六人による幼稚園研究委員会が組織された。委員会は四十四年二月に「札幌市における幼児教育の振興について」の答申を提出した。公立幼稚園の設置については「私立幼稚園設置の助成とともに、公立幼稚園設置の必要もあるものと考えられる」「設立された公立幼稚園は、…研究的・研修的役割を果たす機能を持つものであること」などがあげられた。
四十五年四月、東橋幼稚園が東橋小学校併設園として開園した。市における幼児教育の質的向上を図るための研究を行う、いわゆる「研究幼稚園」的な性格を合わせ持っての開園であった。定員は計七〇名であったが、就園希望者が多く、高倍率となった。初日の「午後三時の締め切りで四歳児は六十七人、五歳児は七十四人」となった。手稲町が設立し、市に移管された手稲中央幼稚園でも「定員百二十(五歳児のみ)のところ、百五十人の申込」(道新 昭45・1・20)があった。その後も倍率は年々増加した。四十八年四月には、市が開設した第二の公立幼稚園として、北区の白楊小学校校内に白楊幼稚園が設置された。その後、四十九年に東区に市で初めて障がいの疑いのある幼児を受け入れたすずらん幼稚園、五十年には豊平区にかっこう幼稚園、五十一年には南区にもいわ幼稚園が設置された。五十三年には、中央区にことばの訓練を必要とする幼児のクラスをもつ中央幼稚園が設置され、ようやく「一区一幼稚園体制」が確立した。しかし公立幼稚園への希望は高く、五十一年度の平均倍率は、四・九倍、五十二年度が四・五倍であった(道新 昭52・11・20)。五十七年度になっても四歳児で二・九倍、五歳児で一・三倍であった(道新 昭57・11・9)
写真-9 もいわ幼稚園外観(平11年に改築したもの)