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オリンピックの遺産と冬季スポーツの振興

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 オリンピックは、市民生活、生活文化、教育としての冬季スポーツの振興、また地域産業面でも大きな影響を与えた。例えば、オリンピック後ただちに結成されたのがジャンプ、スキー、スピードスケート、リュージュの少年団であった。オリンピックが開催された施設でスポーツに励むことは、札幌の子どもたちに大きな夢を与えることに他ならなかった。昭和五十一年時点でもスキージャンプ少年団には一〇三名が登録されている。また、四十九年からは北国らしい生活文化の形成を求めて、市民歩くスキー運動が冬期間の健康づくりとしてはじめられた。市内でのスキー場開発も相次いだ。このことは、市民のスポーツ環境整備にとどまらす、レジャーの大衆化を背景としたスキー観光の拠点形成に繫がっていく。多くのスキー観光地が中山間地に位置することを考えれば、札幌市のような大都市周辺に多くの冬季スポーツ施設を抱えるという例は国際的にみても類をみない。オリンピックは市の産業面でも多大な貢献をなした。
 こうしたオリンピックの積極面を背景に、市は、再びオリンピック招致へと向かう。五十二年三月市議会では、第一四回冬季オリンピック(五十九年)の誘致問題が議論された。しかし、市および市民の態度は複雑であった。とくに前大会とは違い、自然環境保護とオリンピック、また市の財政上の問題が懸念材料となっていたためである。賛成・反対などの陳情二二件が議会に提出され、市民の意向を把握するためアンケートが実施された。議会は調査結果を尊重し、第三回定例会で誘致を決定、五十二年十月二十日に正式に立候補する。しかし、開催都市を決定するIOC総会では、第一回投票で第一位の得票数を獲得するものの、決選投票では初開催をめざすサラエボに破れてしまう。五十三年五月二十六日に開かれた第四回臨時会ではその誘致結果が報告されている。幻の第五回大会(十五年)、第一〇回大会(四十三年)、第一一回大会(四十七年)に続く四度目の冬季オリンピック立候補による開催はならなかった。一九八〇年代の夏季オリンピックは、東西冷戦によるボイコットが続くなど、政治の季節にあった。冬季オリンピックは直接の影響を受けることがなかったものの、自然環境保護という問題を抱えていた。誘致はならなかったが、都市や住民が生活する町という視点からこうしたメガスポーツイベント誘致に関心が集まった点は、オリンピックそのもののあり方にも問題を投げかけたといえよう。またこうした点において、オリンピックに対する市民の受け止め方は、四十七年大会とは大きく異なっていたといわざるを得ない(第七章第二節参照)。
 ともあれ市は、六十一年第一回アジア冬季競技大会、平成二年の第二回アジア冬季競技大会、翌三年には第一五回ユニバーシアード冬季競技大会を開催するなど「冬のスポーツ都市」として国際的地位を確固たるものにした。