「冬のスポーツ都市」としての地位を確実にする一方、すでに昭和五十六年には堂垣内知事がドーム構想を表明するなど、通年で利用できる大型スポーツ施設に対する期待も高まっていた。ただ、六十年には横路知事が財政上の問題からこれを凍結、再び議論が開始されるのは、六十二年の「ホワイトドーム推進会議」(札幌市参画)の結成まで待たねばならなかった。六十三年には東京ドームも完成したことから、ドーム構想にも拍車がかけられた。
もともと、ドーム構想の背景にはプロ野球のフランチャイズ誘致があった。そこに、日本におけるサッカーワールドカップ誘致が重なってくる。札幌市議会は、満場一致で二〇〇二年FIFAワールドカップ大会札幌誘致を決定する(平4・7・31)。翌年にはJリーグも発足し、札幌に本拠地をもつプロサッカーチーム設立の機運もでてきた。札幌青年会議所は、「Jリーグプロサッカー誘致推進特別委員会」を発足させ、三一万人の署名を集めた。これがきっかけとなり、平成八年(一九九六)に北海道初のプロスポーツチーム「コンサドーレ札幌」が誕生した。同年四月には母体となる「株式会社北海道フットボールクラブ」が発足する。
ところで、サッカーワールドカップが開催可能な施設を羊ヶ丘の北海道農業試験場の一部に建設することを桂市長が表明するのは、六年一月のことである。ただ、ドームにするかどうかは、財源の問題もあり難航を極めた。すでに市は、四年に今日の「つどーむ」建設計画を本格化させていた。サッカーだけでなく、プロ野球も開催可能なドーム建設が決定されるのは、八年一月のことであった。こうして東豊線の両端にドームが建設されることとなる。同年五月にはワールドカップの日韓共同開催が決定、十二月には札幌市が国内一〇自治体に決まり、二〇〇二(平14)年を迎えた。
札幌で開催された予選三試合にはアルゼンチン対イングランド戦(六月七日)が含まれていたことから、期間中は厳重な警備(テロ、フーリガン対策)がしかれた(史上最大規模となる約七〇〇〇人規模の警官を動員)。一方、大会では、三八〇(のべ九三七)名の市民が自治体ボランティアとして活躍した。加えて、一二三三名の市民が日本組織委員会(JAWOC)ボランティアとして大会を支えた。昭和四十七年以降のアジア大会、ユニバーシアード大会など国際スポーツ大会を通じて培われた市民の国際性やホスピタリティは、大会を成功に導く大きな原動力となったと言えよう。