昭和五十年代の札幌圏は、全国文壇へ秀作を送り出す有力な発信地であった。その前史として、四十二年(一九六七)の任意団体・北海道文学館の設立と、四十三年一月、北海道初の月刊文芸誌『北方文芸』創刊という〈文芸復興〉の気運を挙げることができる。また、四十五年には、青年期を札幌で過ごした渡辺淳一が「光と影」で第六三回直木賞を受賞し、同年の第二回新潮新人賞は『くりま』同人の倉島齊が「老父」で受賞した。さらに、少年期に八年居住した札幌を「第三の故郷」と語る李恢成(イフェソン)は、翌年下半期の第六六回芥川賞を受賞した。文壇の風はまさに北方から吹いていたのだった。
それらを背景に、五十年代は札幌ゆかりの作家たちの黄金期となった。五十一年、『札幌文学』同人の小檜山博が「出刃」で北方文芸賞(『北方文芸』一〇〇号記念)を受賞したが、それは同年上半期の芥川賞候補作にもなり、注目を集めた。
現役大学生作家として外岡秀俊が鮮烈なデビューを果たしたのも五十一年である。外岡は札幌南高から東大法学部に進み、在学中に「北帰行」により河出書房の第一〇回文芸賞を受賞した。また五十三年、札幌生まれの土居良一が、市立旭丘高校卒業後に米国へ留学した体験をもとにして書いた「カリフォルニア」で、第一回群像新人長編小説賞を受賞した。同じく二〇代、札幌南高から早稲田大へ進んだ見延典子の「もう頰づえはつかない」が、『早稲田文学』五十三年五月号に一挙掲載されたことも話題となった。同年、講談社より単行本化されるとたちまちベストセラーになり、映画にもなった。
北海学園大法学部に通った佐々木丸美が、NET(現・テレビ朝日)と朝日新聞の二〇〇〇万円懸賞小説に佳作入賞したのは五十年である。デビュー作『雪の断章』の舞台は札幌であり、ミステリアスな展開に少女小説の抒情を加味した作風は、〈丸美ワールド〉として女性の圧倒的な支持を得た。その後、講談社より『崖の館』『忘れな草』『花嫁人形』など話題作が立て続けに刊行された。
四十年代後半から五十年代、創作・評論・研究の多分野に渡って画期的な仕事をなしたのは中野美代子である。札幌出身で、のちに岩波文庫『西遊記』翻訳も手がけた中国文学者であるが、四十七年に評論集『北方論―北緯四十度圏の思想』刊行後、小説『海燕』、論集『カニバリズム論』『西遊記の秘密』等を次々に上梓、五十五年刊の『孫悟空の誕生』は芸術選奨文部大臣賞新人賞を受賞した。
そのような熱気の中、五十三年初夏、新聞各紙は高橋揆一郎「伸予(のぶよ)」(『文芸』五十三年六月号)の第七九回芥川賞受賞を一斉に報じた。『くりま』同人であり、出生地・歌志内の炭坑を原風景とする高橋は、受賞時は五〇歳であった。札幌在住作家として初の受賞であり、以降も間断なく佳作を発表し続けた。