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自主上映団体の結集

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 かつての娯楽の王者・映画も、昭和三十年代以降はテレビの普及とレジャーの多様化により、〈斜陽〉産業と言われるようになった。「観客規模は十分の一に縮小」(道新 昭56・9・18夕)という状況下、市内六つの上映・鑑賞グループが結集し、大がかりな「さっぽろ映画祭」がスタートした(表5参照)。
表-5 さっぽろ映画祭
名称会期主会場上映本数主要作品主なゲスト
昭57さっぽろ映画祭19825/15-28東映パラス249本「ツィゴイネル・ワイゼン」原田芳雄、四方田犬彦
 58さっぽろ映画祭19835/18-27シネマ555本「風の歌を聴け」かわなかのぶひろ
 59さっぽろ映画祭19846/17-29ニコー劇場30本「時をかける少女」原田知世、角川春樹
 60さっぽろ映画祭19856/29-7/12シネマ・ロキシ33本「Wの悲劇」柴田恭兵、澤井信一郎
 61さっぽろ映画祭19866/21-7/4角川シアタ31本「ミツバチのささやき」イ・チャンホ、崔洋一
 62さっぽろ映画祭19876/26-7/10シネマ・アポロン33本ロビンソンの庭」大林宣彦、山本政志
平 2プレ・さっぽろ・シネ・フェスティバル12/12-14赤れんがホール4本ほか「バタアシ金魚」松岡錠司
  3南北コリア映画祭12/4-6赤れんがホール6本「旅人は休まない」ぺ・チャンホ、イ・チャンホ
  4さっぽろ北方圏映画祭'92 (共催・西友)12/1-6赤れんがホール11本「裸のランチ」島田雅彦、品田雄吉
  5さっぽろ北方圏映画祭'93 (共催・西友)10/6-11赤れんがホール18本「殺人に関する短いフィルム」相米慎二、王好為
  6さっぽろ北方圏映画祭'94 (共催・西友)11/22-29赤れんがホール17本「戦争と平和 全長版」椎名誠、謝晋、崔洋一
  7さっぽろ映画祭リターンズ'957/1東宝公楽6本「つきせぬ想い」竹中直人、ツァイ・ミンリャン
  8さっぽろ映画祭リターンズ'966/14-15松竹遊楽館5本「天使の涙」長崎俊一
  9さっぽろ映画祭リターンズ'976/27-30松竹遊楽館8本ほか「永遠なる帝国」「サワダ」朴鐘元、手塚眞
 10さっぽろ映画祭リターンズ'987/3-5松竹遊楽館8本「冷たい血」サブ、藤原智子
 11'99さっぽろ映画祭リターンズ・ファイナル7/2-3松竹遊楽館6本「八月のクリスマス」ホ・ジノ、サエキけんぞう
 12さっぽろ映画祭200011/17-24東映パラス28本ほか「風花」「シュリ」及川善弘、中丸シオン

 「札幌を日本の映画の希望の地に」(道新 昭57・2・9夕)というファンの想いが、市民手作りの映画祭を牽引した。五十七年五月、それまで独自に自主上映やシネマラソンを実施していた、シネ・ブラボー北海道(竹岡和田男ら)、ビーチ・フラッシュ(浜田正春ら)、北海道キネ旬友の会(和田由美ら)などの六団体・サークルが、二週間で四九本を一挙上映する「さっぽろ映画祭一九八二」を開催。道内初のファン主導による映画祭であり、道在住作家の自主製作フィルムを公募・上映する部門を設けた点も特色であった。ファンの求める作品上映とともに、地元映像作家を育てることも主眼であり、六十二年までの六回、監督や評論家を招いたゼミナールもあわせて行われた。
 映画祭は成功したが、その背景に映画状況を支える若い力の存在があった。五十六年、空いていた札幌駅裏8号倉庫に、映画・演劇関係者が集まり、期限付きのフリースペースを開設した。国内外の自主製作映画上映などさまざまなイベントが行われたが、中心となったのは二〇代後半から三〇代前半の人々であった。「八〇年代、駅裏には札幌のカルチャーシーンがあった」(道新 平12・1・7夕 木村純一)という回想のように、駅裏から発した若い世代の情熱が、札幌の映像文化の原動力だったのである。