昭和六十一年、主に実験映画を自主上映する多目的スペース、イメージ・ガレリオがオープンした。代表は映像作家の中島洋であり、南三条西六丁目の長栄ビル二階の三六平方メートルという小スペースが選ばれた。その翌年、レンタルビデオの席巻により札幌から角川シアターが撤退するなど、一時の映画復調ムードも暗転に向かっていたが、ガレリオは札幌在住映像作家(平成四年から東京在住)・山田勇男の短編フィルム等、年間三〇〇本近い作品を上映、独自の路線を切り拓いた。平成四年、ガレリオは二九席の日本最小映画館・シアターキノに転身、三五ミリ映画を上映する一般映画館となった。十年四月には南三条西六丁目の南三条グランドビル二階(狸小路六丁目)に移転し、二館計一六三席の映画館として新たな観客を開拓している。
ガレリオの上映作に刺激を受けた学生たちが、昭和六十年代から平成にかけて、制作の方面で活躍した。六十二年、札幌や小樽の大学生による長編八ミリ映画『雪虫のころ』が完成したが、監督は吉雄孝紀(よしおたかのり)、プロデューサーはガレリオの中島洋であった。吉雄は翌年『さんびゃくろくじゅう五日のダンス』も撮り、平成二年、初の全国劇場公開作『へのじぐち』(ジャブのプロデュースによる)を監督した。同作に出演した鈴井貴之は、十二年には自らメガホンをとって『man-hole』を完成、以降『river』『銀のエンゼル』など監督業に力を注いでいる。
三年に発足した学生映画研究会の連合体フィルム・ワークスは、国松正義『EDGE』、水戸英樹(水戸ひねき)『ストレンジ・ハイ』『脳の休日』、小笠嘉士(おがさよしじ)『世界が静寂だったらいい』などを生み、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭や、映像作家の登竜門・ぴあフィルムフェスティバルで高い評価を受けた。また、北大映画研究会からスタートした早川渉は、CM映像作家として活躍しつつ、十年に映画『7/25』でバンクーバー映画祭最優秀新人監督賞を受賞した。そのシナリオを書いた荒木田真穂も、同作でイタリア・トリノ映画祭最優秀脚本賞を受賞し、札幌から世界へはばたいた好例となった。