ビューア該当ページ

国際映画祭に向けて

934 ~ 935 / 1053ページ
 昭和六十年代は札幌の映画状況にも「国際化」が訪れた時期であった。五十九年、市教育文化財団と札幌映画サークルビーチ・フラッシュ北大映画研究会が共同主催した「ドイツ映画大回顧展」は、二〇カ月で一二三本ものドイツ映画を上映、延べ五七二九人が鑑賞した。同財団は五十七年から「南アジア名作映画祭」「アフリカ映画祭」など海外秀作シリーズを企画し、一般封切館では見られない知られざる名作を市民にもたらした。中でも六十一年から始まった「中国映画祭」では、同時代の新作も毎年数本紹介され、アジアの新世代監督の力を十分に知らしめた。平成九年には、教育文化会館オープン二〇周年事業の一環として「韓国映画祭」も開催され、のちの韓国映画ブームを予感させる充実ぶりであった。また、道立近代美術館の実験作上映シリーズも貴重なものであった。
 それら国際化意識のもと、前述の「さっぽろ映画祭」が国際映画祭を志向する場として再生した。平成七年、「さっぽろ映画祭リターンズ'95」が開催されたが、これは四~六年に西友と共催した「さっぽろ北方圏映画祭」から離れ、市民主導の国際映画祭開催を目指そうと再出発したものである。札幌に国際映画祭をという構想は、八〇キロメートル離れた夕張市で平成二年から始まった、「ゆうばり国際ヤング・ファンタスティック映画祭」の成功が刺激となったものでもあった。しかし推進役の竹岡和田男が十二年九月に死去し、「さっぽろ映画祭二〇〇〇」のニュースレター第一号は竹岡実行委員長追悼号となった。
 一方、「さっぽろ北方圏映画祭」を前身とする「さっぽろ映画フェスタ」は、五年から映画シナリオを公募し、合宿によるマンツーマン方式でシナリオを練り上げる、「さっぽろ映像セミナー」を併設した。新(しん)和男鶴間香らが脚本家や原案作家としてデビューするきっかけにもなり、一線で活躍する講師陣の公開セミナーも魅力であった。同フェスタには市も補助金を出し、札幌を映像文化の発信基地にという期待のもと六年続いたが、十年に事業予算の八割を担っていた西友が映像事業から撤退したのを機に幕を閉じた。フェスタ自体は九年には「過去最高の三千人を動員するなど、映画ファンの輪を着実に広げてきた」(道新 平10・6・17)だけに、惜しまれるものであった。