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博物館施設

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 札幌市の博物館施設の変遷をたどると、昭和二十四年十二月に丸井デパートの四階に市立図書館の分室として札幌市郷土室が開設されていた。二十六年六月二十一日からは六階へ移転している(その後は七階)。当初、アイヌ民族関係資料約一〇〇点と先史時代の資料三〇点ほどが展示されていたが、資料が増え土器、石器、写真資料などは市立図書館であった時計台に保管していた。郷土室は一〇年にわたって維持されるも、店内の拡張工事によって三十五年八月で閉鎖となる。郷土室は「幅三メートルのガラスケースが六本置かれ、アイヌの民俗資料や写真、地図など約千点が展示され」、「デパート展示場の片隅にあるささやかなものだが、市民や観光客から札幌唯一の郷土室として親しまれてきた」ものであった(道新 昭35・7・3)。
 閉鎖後は市民会館の大ホール前の通路にアイヌ民族関係資料を展示し、考古学資料は図書館で保管していたが、市民会館の方は自由に見られず「宝の持ちぐされ」と批判される状態であった(タイムス 昭40・12・2)。市では一〇〇年記念事業として四十四年度をめどに、植物園内の西側に郷土博物館の建設を計画したが(道新 昭35・7・26)、実現を見ることはなかった。
 博物館の代替的な施設として一時利用されたのが、札幌市資料館と時計台である。旧札幌控訴院の建物を保存・活用した札幌市資料館が、オープンしたのは四十八年十一月三日であり、オリンピック・文学資料、考古学資料などを展示していた。時計台も市立図書館の移転後は歴史展示施設とされ、札幌歴史館として五十一年十二月十八日にオープンしていた。ただいずれも不十分なものであったし、五十一年の新長期総合計画でも博物館設置の促進がうたわれていた。
 大都市の中で博物館がないのは札幌市のみであって、「札幌に博物館を」という市民の要望は強かった。札幌市では平成四年の第三次長期総合計画、第二次五年計画で「博物館構想の推進」、八年の第三次五年計画で「博物館建設」を策定した。博物館は「北・自然と人」をテーマとする自然系の総合博物館とされ、同年七月に博物館建設準備委員会を設置し、八年八月に基本構想、十年十二月に基本計画の提示がなされていた。既に九年九月にリンケージプラザ(中央区北一西九)内に仮収蔵庫を設置し、十年四月に学芸員を置いて活動を開始していた。札幌市は十三年一月に計画推進方針をたて、「開館準備活動自体が博物館活動である」との趣旨のもとで、同年十一月に札幌市博物館活動センターを開館させ、将来の博物館建設にそなえることとしている。ただ、人文・歴史系の博物館構想はなく、今後の課題となっている。八年に実施された市政モニターでも博物館に期待することとして、「貴重な資料が文化遺産として保存されること」(四四・一パーセント)、「札幌の歴史がよくわかること」(三六・四パーセント)が高くなっており(平成八年度市政モニター報告書 平9)、その実現が期待される。
 冬のスポーツ博物館はスキー、スケートなど冬のスポーツ関係資料と札幌冬季オリンピック資料を展示する施設として開設された。五十四年二月に開催の宮様スキー大会が五〇回目を迎え、記念展示を計画したことが開設の契機となり、博物館の要望が高まった。それを受け札幌市では、中島公園そばの南一一条西三丁目、もと道立地下資源調査所を改修して五十五年二月三日にオープンする。一階にスキーの展示、北大パラダイスヒュッテの復元、二階にスケート・ボブスレー、オリンピック資料、大野精七コレクションなどを展示していた。同館は次の札幌ウィンタースポーツミュージアムの開館にともない、平成十一年十二月二十八日をもって閉館となった(運営管理は札幌市スポーツ振興事業団)。
 札幌ウィンタースポーツミュージアムは、中央区宮の森にある大倉山ジャンプ競技場の整備事業の中で、体感ゾーンを併備する施設として、平成十二年四月二十二日に開設されている(運営管理は札幌振興公社。さっぽろ文庫96 大倉山物語)。