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丘珠獅子舞と無形文化財

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 丘珠神社の秋の例祭(九月五日)に奉納される丘珠獅子舞は、明治二十五、六年頃より富山県砺波地方の移住者によって始められていた。しかし、後継者不足が原因で昭和三十七年に中絶となるも、四十年に丘珠獅子舞保存会が結成され復活にいたった(道新 昭40・8・18夕)。丘珠獅子舞はムカデ獅子舞の一種で頭から尾まで八人が操り(獅子頭一人、胴七人)、先ぶり・踊り手(獅子取り)が三人、笛・太鼓が一〇人前後、計二〇数人で編成され、「小薙刀の舞(なぎなたのまい)」「扇の舞」「乗獅子」など一二種の舞をもっており、富山県福野町安居(やっすい)の安居獅子舞と相似していた。

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写真-11 丘珠獅子舞、最初に演じられる小薙刀の舞

 移住者の貴重な郷土文化を伝える丘珠獅子舞は、「郷土の伝統芸能である獅子舞を伝承し、その団結を固め、開拓を推進し」、「その後丘珠獅子舞保存会を組織し、その保存に努めてきた歴史的努力の過程は意義あること」とし、「演技音曲も先人の開拓の姿を後世に伝えるにふさわしいもの」とされて、初の市無形文化財として四十九年十月二十五日に指定となった(市文化財保護委員会の「答申書」、観光文化局文化財課資料)。丘珠獅子舞保存会は、五十九年度の道文化財保護功労賞を得ていた。なお、丘珠獅子舞保存会では『丘珠獅子舞百年のあゆみ』(平3)を刊行している。篠路獅子舞(四十一年十一月に烈々布獅子舞を改称)も明治三十四年の創始とされる古いもので、昭和三十七年二月に保存会が結成され、伝承と烈々布神社への奉納が続けられている。
 市内の消えた無形文化財では篠路歌舞伎、新琴似歌舞伎がある。篠路歌舞伎は花岡義信(大沼三四郎)が中心となり、「花岡義信之碑」(昭和十年建碑)文によると、創始は明治三十五年四月二十五日であり、終演は花岡義信が「引退」した昭和九年十一月二十四日となる。『北海道演劇史稿』(昭48)でかつての活動が注目されるようになり、四十九年に写真・のぼりなど四七点を展示した「幻の篠路歌舞伎展」が開かれ(5・13~5・31)、『篠路歌舞伎写真集』(昭59)も発刊された。そして六十年十二月五日に篠路歌舞伎保存会が結成されて再演されることになったが、六十一年以降は篠路中央保育園の園児による篠路子ども歌舞伎として演じられてきている。なお、篠路歌舞伎関係の資料は、篠路コミュニティセンターにて保存・展示されている。
 新琴似歌舞伎は田中松次郎が中心となり、明治三十年から大正五年頃まで演じられ、松次郎は明治四十三年に若松館も開設していた。昭和四十九年に子孫宅で資料が発見され(道新 昭49・10・30夕)、その活動の跡が明らかになった。新琴似歌舞伎伝承会が平成五年七月十四日に設立され、八年三月二日に八〇年ぶりの復活公演がなされるなど、新たな復活と継承が試みられている。
 また、中村美彦は『篠路歌舞伎ノート』、「篠路歌舞伎私論」(さっぽろ市民文芸第一・二号 昭59・60)、『札幌演劇史小論』(昭60)に両者の農村歌舞伎の歴史をまとめている。