水戸大津浜(現茨城県北茨城市)の五十嵐勝右衛門は蝦夷地の場所請負を画策し、水戸藩を通じ幕府と交渉を重ねた。安政五年(一八五八)石狩改革にともない、箱館奉行所は彼に出稼として鮭漁場を割り当て、石狩川筋江別より上流域の開発と留萌方面への新道調査を命じ、さらに浜名主と湊案内という役に任じた。この史料は勝右衛門の石狩における事業と役務にかかわるものである。
五十嵐勝右衛門文書と名付けたものは、半紙二つ折袋綴二十一冊(墨付全六百八丁)からなり、これを内容から二分類することができる。すなわち、うち十冊は勝右衛門と水戸藩の交渉経緯を伝える往復書簡や記録で、その多くは後日筆写編綴されたもの。のこり十一冊は石狩浜名主としての御用留である。
前者は勝右衛門が石狩とかかわる経緯、漁場の経営、失敗のいきさつを、水戸藩関係者とかわした書簡や手控によってまとめている。そのうち本巻に収載した「安政三辰年東行御用留」、「万延元申年より酉正月迄水戸行文通書」は勝右衛門が藩側に宛た書簡を、「午未申酉戌亥水府御用状之写」は藩側からの書簡を筆写している。このほか本巻に収載できなかったものに、万延二年(一八六一)から慶応元年(一八六五)にいたる文通控、日記留、願書写等七冊がある。
後者は浜名主在任中の一連の文書控。十一冊のうち表題紙に「御用留」とあるのが五冊、ないのが五冊、あとの一冊は浜名主罷免後の文久二年(一八六二)「諸用留」である。この不統一は後日の製本作業(裏打、分冊、表紙、和綴)によるものらしく、元本を二~三冊に分冊したように見受けられる。これらを仮に「石狩御用留」と呼んで統合し、更に 「諸用留」も石狩における文書控であるから、便宜的にこれに含めることにした。なお、本文の書名中〔 〕を付したのは編者が補記した部分である。
石狩御用留十一冊に収められている文書に、編者が付した件名数は四百四十二件で、うち約六割にあたる二百六十八件は市中住民から浜名主の奥印をえて御用所や御改役所に出された願届書の控。あとは役所や浜名主からの達、触、規則類(その請書を含む)八十四件、その他願人の請書、通行手形、人別書等が九十件である。市中住民の願書は浜名主の手を経たもののほか、本陣(原本では陣と陳の字を使用しているが、陣に統一)を経由したり、直接役所に出されたものがあったらしく、願書の実数ははるかに多かったと思われる。そこに場所請負制廃止直後の石狩の複雑な様子がうかがえよう。一方、役所から出される諸規則はとりもなおさず石狩新体制の基本方針を示したもので、そこに対アイヌ政策、新住民の定着促進、漁業経営の改革、収税組織の確立等の流れをうかがうことができる。これらは場所請負廃止後、出稼が村民(百姓)になる経過を語る貴重な史料なので、十一冊全文を本巻に収載した。
石狩御用留の対象年代は安政五年四月から文久二年十二月までの四年九ヵ月(五十七ヵ月)である。うち、安政五年十一月から翌年五月まで、同六年九月から十二月まで、万延元年十、十一月、文久元年八月から翌年八月まで、計二十六ヵ月分を欠き、その所在は明らかでない。すなわち本巻収載分は、この期間の五四%ほどと考えられる。
本史料の存在はかなり早くから知られ、注目されていた。幾度か個人研究者や古書店を渡ってきたことは「奥山蔵書」の朱印、「青鷺亭文庫」の蔵書票からもうかがえる。この間、内容の詳細が公表されないまま史料の性格が誤り伝えられたこともあったように思われる。昭和六十一年、当市教育委員会が本史料を購入収蔵し、市史編纂に使用するとともに、歴史研究に役立てていただくことを願い、初めて印刷に付したものである。