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解題

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 「イシカリ場所人別帳」は、蝦夷地随一の鮭の生産高をあげてきた、いわゆるイシカリ十三場所内で直接生産に携ってきたアイヌの人びとの安政三年(一八五六)のものである。
 ここに収録した人別帳は、幕末の蝦夷地探検家松浦武四郎文書の中の「野帳」三十八冊中の「巳第三番」(国立史料館蔵、松浦一雄氏寄託史料)の中にあるもので、今回松浦家の了解のもとに札幌市史にもっとも関係の深いイシカリ場所のみを抽出し、はじめて活字化したものである。
 
 この「野帳」は、武四郎が安政三年から五年にかけて、幕府の蝦夷地雇として蝦夷地山川地理取調などを行った際の三つの著作物、すなわち安政三年の『竹四郎廻浦日記』三十一巻、安政四年の『丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌』二十四巻、安政五年の『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』六十一巻の計百十六巻(北海道出版企画センター刊行)の手控に相当するものである。その形態は、横長の和綴本で、「巳第三番」の場合一八〇×八四ミリ、三十八丁から成っている。
 「野帳」の内容は、地名解、小名(こな)調、本草関係記事、言語・風俗、箱館奉行所関係記事のほか、ここに収録したようなアイヌの人別帳の写しとから成っている。このうち、人別帳の写しの存在する地域は、北蝦夷地をはじめ、東蝦夷地はネモロから山越内、西蝦夷地はシヤコタンからエサシ(枝幸)までの実に広範囲におよぶ。いずれも場所が幕府に引渡しがあった安政三年から翌年にかけてのもので、運上屋や会所に備えつけの帳面の写しである。
 
 ところで蝦夷地の人別帳は、蝦夷地の最初の幕領以後和人のそれに準ずる形で次第に作成され、それも毎年ではなく支配者の交代ごとに引継ぎのために調査されたに過ぎず、帳面は運上屋に備えつけられ稼働労働力掌握の参考にされていたらしい。ゆえに役所から要求があった場合において異動を調査したので、実情と一致しないのが当然であった。
 イシカリ場所の人別帳の内容は、イシカリからはじまって、ハツシヤフ、下サツホロ、上サツホロ、上ツイシカリ、下ツイシカリ、上カハタ、下カハタ、上ユウハリ、下ユウハリ、シマヽフ、シノロ、ナイホウの順に、各場所の人別を世帯構成ごとに記している。その様式は、惣乙名など「役土人」から「平土人」へとおよび、家主を筆頭に、妻、悴、娘、悴の妻、女の子というふうな順に記し、時にはウタレのように、非血縁者を構成体の中に加えている場合もある。
 さらに、イシカリ場所に限って他場所のそれと異なる特色は、ただ人別帳を写し取っただけでなしに、武四郎自ら「野帳」を懐に現地を一軒ごとに調査し、世帯ごとに出身地、現住所、生死等確認した事項を行間に注記していることである。今回史料編に収録するにあたり、注記事項を忠実に生かすことに努め、それらを小字で表記した。たとえば、下ユウハリのイコレキについてでは、「トミハセ父也 元ウラシナイ 今トミハセ家也」とあるのがそれである。また、上欄の「ハ」「山」の印は、浜や山に行っていて不在を意味し、「死」の印は、物故者を意味している。
 
 それにしても、この人別帳を見た限りでも帳面上と実情とが大きく齟齬している点は驚かざるを得ない。武四郎自身『丁巳日誌』の中でそれに触れ、「実に棒[抱]腹に堪ざるなり」、「生死の差別もなく人別帳として差出置こと、(中略)悪みに余りあることなり」と憤りを込めて記している。しかしその一方、イシカリアイヌと称されていた人びとが、実際は石狩川上・中流域の出身者がほとんどであったことも武四郎の調査で明らかとなり、イシカリ場所への労働力としてのアイヌの人びとの動員のすさまじさを物語る得がたい史料の一つといえよう。
 なお、本史料の解読・注は武四郎研究家の秋葉実氏の手をわずらわした。ここに記して謝意を表したい。この場合、カタカナ表記はあくまで原本のままとした。