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解題

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 ここに収録した十文字龍助(りょうすけ)関係文書(以下十文字文書と略す)は、明治二年八月より同四年七月まで開拓使の開拓大主典として、開拓判官島義勇の輩下で、あるいは島の東京召還後も草創期の札幌の建設に携わった十文字龍助に関わる文書である。今回はじめて活字化することにより、札幌市史にとって史料の乏しい空白の時期がかなり埋められると思われる。
 十文字文書は、東京の十文字良子氏所蔵になるもので、小さい長持四棹に収められた約一千点にのぼる史料群である。しかし史料を残した龍助の経歴については、あまり知られていない。龍助は、文化九年(一八一二)仙台藩の支藩涌谷領の藩士の三男に生まれ、江戸の昌平黌に学び、多くの儒者たちとも交流を持った。幕末には江戸で蝦夷地探検家の松浦武四郎や佐賀の島義勇、仙台の玉虫左太夫たちと情報を交換し、かつ蝦夷地の状況視察のために何度か蝦夷地に足を運んでいる。明治以後は、島義勇の誘いにより開拓大主典として札幌本府建設に携わったばかりでなく、札幌の金融業のはしりをもつとめていた。それは本史料にも収録したが、札幌を去った後も札幌の人びとと書簡のやりとりが続くことによっても知られる。晩年は故郷涌谷で寺子屋の師匠をつとめ、明治十五年コレラで涌谷に没している。
 十文字文書全体の内容は、大別すると日記(弘化年間~明治十三年)、書簡、開拓使関係文書、金銭出納簿(金融業関係)、地券関係書類、和漢書籍類、名家詩文集、書画、絵地図、その他などである。
 新札幌市史編集室では、今回史料編に収録するにあたり、市史にとって重要かつ稀有な史料のみを抽出し、以下の四分類にして収めた。すなわち、一、蝦夷地開拓意見書、二、開拓使関係文書、三、日記、四、書簡である。
 
 一の蝦夷地開拓意見書は、龍助が安政三年(一八五六)箱館滞在中に草したといわれている開拓意見書である。本史料には、標題がないので便宜上付したが、本文と附議三ヵ条からなる草稿のため随所に加筆訂正がみられ、龍助の号「栗軒」の蔵書印が押されている。わけあって宮城県大石家の所蔵となっているが、龍助自筆であろう。
 一方、『涌谷町史』下(昭和四十三年刊)に紹介されている「榕園日録」巻之四(涌沢榕園著 同町涌沢はる氏所蔵)にも、意見書の写しが収められており、末尾に榕園の言葉で、「栗軒ノ策ニシテ箱館鎮台堀氏ニ示ス時安政三年冬十一月」とある。すなわち、この時期の十文字文書などからも窺われるように、安政二年には箱館開港以後の蝦夷地の状況視察のため蝦夷地巡歴の経験があり、翌三年には、涌谷開拓資金援助を求めて越後の松川弁之助を訪ね、その足で箱館に渡っている。ここに数ヵ月滞在する間にまとめ、箱館奉行堀織部正利凞に示したというのが本史料である。
 本史料の内容は、石狩を蝦夷地の中央とみなし、一城を築き、「守衛ノ士員ヲ土着トシ地ヲ其近傍ニ割与シ其臣僕ヲシテ墾闢セシメ」る、いわゆる在住制度を先取りした開拓論である。そこには、やがて開拓使以後龍助自身も参画することとなる札幌本府建設を展望した、石狩建都論ともいうべき一大都市計画案が存在する。実に興味深い史料である。
 
 二の開拓使関係文書は、龍助が開拓大主典の任にあった時の公文書である。うち「評議留 銭函分」は、明治二年十一月十三日から十二月はじめまでの、開拓使銭函仮役所分の決裁綴原本である。すなわち、開拓判官島義勇は、同年十月十二日銭函に到着して銭函仮役所を開設し、札幌本府建設をはじめ管轄になった西部諸郡に関する施策を開始した。本史料は、行政史料の極めて乏しい施政初期のもので、職人人足集め、商家旅店等の建設、道路の改修等々、島判官を頂点とする開拓使初期施政方針を物語る貴重な史料である。
 また「御金遣払帖 札幌控」は、明治二年十一月十七日から翌三年十二月にいたる開拓使の銭函仮役所-小樽仮役所の金穀懸札幌分の金銭支出簿控で、龍助の筆になるものである。帖簿は、支出額ごとに詳細な内容の説明があり、かつ龍助が四年十二月より五年五月の間に加えたという朱書等の但書が行間にびっしりと書き込まれている。かつ欄外には、営繕、御仕入、官禄、給料、旅費、人馬、石炭山方、被下、貸付、移住民御手当のように費目分類を記し、各月毎に費目別集計をしている。活字化するにあたり、行間朱書は抜き出してそれぞれまとめたが、支出額説明を見た限りでも、官員、諸職人、農民など札幌の街づくりに直接携わった人々の具体的姿を窺いうる好史料である。
 ところで、金穀懸の今一つの業務「穀」に関する史料として、同じ十文字文書の中に「札幌御蔵米請払調」をはじめとする廻米関係史料が多く存する。今回収録はしなかったが、合わせ見ることにより一金穀懸を通して見た杜幌本府建設の具体的内容が解明されるであろう。
 
 三の日記は、途中欠もあるが明治三年一月一日より同五年十二月八日までを収録した。すなわち、龍助にとって銭函仮役所-札幌詰-開拓使被免-札幌出立-函館着の間である。
 収録年月日は、以下のとおりである。明治三年 1/1~1/19、1/21~3/9、3/7~4/2、4/7~4/8、5/8~5/16、7/末~8/12、8/29~12/13、明治四年 6/1~12/30、明治五年 1/1~12/8。
 なお、明治二年分は、開拓使へ赴任する途中の九月十八日で途切れているため割愛した。本史料は、特に明治三年については冊子の体裁をなしたものばかりでなく、反古紙同然の紙片に書き付けた日記も見られ、内容から判断して年月日順に復原した場合もある。内容は、緻密な人柄がしのばれる小さな特有の字体で、天候をはじめ、公務、私事、人の往来、書簡の発着、巷間情報等々、実に小まめに記している。公務では、三年二月の島開拓判官の東京召還とその後の混乱、同年五月の一の宮御神鏡遷座式、同年十月の麻畑(平岸)開墾地見分、四年七月の龍助の免官と御用中滞留申付の件などにも触れている。また私事では、清水三次郎より鹿肉を、早山清太郎より沢庵漬や鮭が贈られたり、御雇外国人の到着、偕楽園内官舎より十号長屋への転居、医師斎藤龍安による妻伊那への往診、発寒の熊送り、夏越(なごし)の祭等々多くのことが記されている。まさに草創期札幌の官員から一般庶民にいたるまでの当時の生活の一端を垣間見る、稀有な史料ということができよう。なお、登場する人物名は略記されている場合が多いが、あえて注記はしなかった。
 
 四の書簡は、札幌市史に関わりの深い発信者十五人、五十二通を収録した。これらは件名目次に示したとおり明治二年より同十五年までの間、すなわち龍助にとっては開拓大主典・札幌滞在中-函館滞在中-涌谷-東京滞在中-涌谷の期間のものである。
 発信者は、以下のとおりである。岩村通俊(開拓判官)、佐々木貫三(相馬藩出身、請負師)、佐藤金治(開拓使の使部、のち荒物屋)、島義勇(開拓判官)、清水三次郎(龍助の従者、旅籠屋、副戸長)、同辰次(治)郎・つね(三次郎の息子・三次郎の妻)、十文字秀雄(龍助の甥)、早山清太郎(使掌、請負師)、得能通顕(開拓権判官)、畠山六兵衛(水原寅蔵組番頭、請負師)、久路直治郎(同郷の商人)、福原亀吉(越後職人、請負師)。
 内容は、たとえば島の場合、東京召還後の心情や東久世の評判、また渡し過ぎの金員返済などについて屡々述べている。その一方、同郷からの従者で家族ぐるみの付き合いのあった清水三次郎は、明治六年の札幌の不景気を伝え、三次郎没後は息子と三次郎の妻つねとの連名で借金返済延期を申し入れている。これは龍助が金融業のはしりのようなことをつとめていたためだろう。札幌を去った後も郵便為替手形や年賦金証文のやりとりがあることによっても知られる。またなかには、幌内鉄道起工により地価がはね上がったことや、札幌の物価の相場を毎回知らせたものもある。とにかく、草創期の札幌についての古老たちの証言を今一度再確認させる興味深いものばかりである。
 
 なお、今回史料編に収録するにあたり、十文字文書所蔵者十文字良子氏、十文字学園、谷澤尚一氏(北方史研究会顧問)に大変お世話になった。ここに記して謝意を表したい。