この「明治六年市在状況調」は、札幌建設の目途が一応立った明治六年上期の市街地並びに周辺村落の現況を示す戸口、耕地面積、収穫高、市中商高の調べを集録したものである。
「庁下第一大区戸籍職分寄留総計調」(道立文書館〇〇六六八以下道文)は市街地並びに札幌村外十一ヵ村を合わせた開拓使庁下第一大区の明治五年(一八七二)十月現在の戸籍(当地に本籍のある者)、職分(札幌建設による一時的滞在者)、寄留(本籍を移していない現住居者)に分けての戸口の総計並びに市街地五小区、札幌村外十一ヵ村の戸口数、男女年齢別合計数の調べである、政府は明治四年四月四日戸籍法を定め、翌年一月二十九日戸籍調査を実施した。しかし開拓使は同四年九月戸籍調査期限を府県と同一に実施され難い旨を開申し、五年四月、戸長、副戸長を戸籍調査委員に兼務で任命し、同十月に調査を実施した。これはいわゆる壬申戸籍であり、この統計はそれに基づく総計数である。
「札幌村外十一ヶ村検地野帳」(道文〇〇六五五)は札幌周辺村落の耕地宅地面積並びに耕作状況調の野帳である。全国的に土地の私有が認められたのは明治四年七月の廃藩置県にあるが、政府は五年二月土地永代売買の禁を解き、次いで地券渡方規則を定めている。開拓使は四年九月二十九日付で各郡永住人の従来開墾した拝借地は沽券地にするが、その分は竿入を以て坪数を取り調べる旨を布達、さらに五年六月四日札幌管轄諸郡に於いて、開墾地を願い出る者は土地検査の上一戸に付十万坪を限り割り渡す旨を布達し、九月に北海道土地売貸規則を定めて、この土地割り渡しの方針を以て、六年六月札幌郡各村々在住者の耕地、宅地の地積調査を実施した。この検地野帳はその時の現地調査簿である。
札幌村外十一カ村の「明治六年収穫高調」は、松本判官の主として農事関係事項記載の手控帳「摘用録」(函館図)にあるもの、明治五年の記載もあるが、六年の分のみ採録した。播種物は五年、六年共に殆んど同様であるが、札幌村外十一ヵ村の総計作付反別は五年が三〇二町六反八畝十二歩とあるに対し、六年は五二五町八反二〇歩となっている。
「市民商業惣高取調」(鶴岡市郷土資料館)は札幌町会所の用紙に記載されており、戸長らの調査によるもの。明治六年一月から六月十五日までの五ヵ月半に於いて、市街地各店々の商売と売上高、並びに家族、奉公人の数を調べたもの。これに「家作貸渡幷割貸同居他出取調」が付され、創成町外十ヵ通別に貸家、同居、他出者も調べられている。
付書した「札幌市中景況」は松本判官の「札幌滞在事務取扱備忘誌 第五号」(松本家)所載のもの、この市民商業惣高取調書によって得た市中商業者五百八戸を業種別に分類し、その業種別に店々の売上高の合計を求め、利益率を料理、旅籠、貸座敷渡世は三割五分、荒物渡世は三割、請負人は一割五分、諸職人は六割の所得と見なして各業種一ヵ月の平均所得高を算出している。これは地方諸税の問題などが考慮されて算出されたものであろうか。
ところで、この明治六年の下期、予定の官衙、官邸や諸施設の建設が一段落して、その工事関係者、前記の戸口統計によれば「職分」の数は千人を越しているが、それらの人々が札幌から退去しはじめ、為に町の商売は火の消えたようになり、定住者の転出も続出、市街地七百の家並のうち百九十戸の空き家もでき、札幌は大不況となった。松本判官はこの不況対策に独断で本庁や官邸の四囲に土塁を築かせる土木工事を起こし、加籍の窮民で開発に従事する者には土地を割り渡して耕作をさせ、また「賑恤規則」を定め、かつ蔵米の低価払下などを実施、さらに市民の救済を図り定住に努めたが、札幌建設再出発の役を果たしたのが同七年から八年にかけて琴似、山鼻の屯田兵村四百八十戸、その家族二千余人の入居する兵屋の建設であった。そして屯田兵が家族共に八年から九年にかけ、続けて入植した。市民が札幌に漸く永住の念を起こすに至ったのは明治十三年札幌、小樽間に汽車が走り、物価が低落してからのことである。