石狩平野に北海道開拓の中心となる本府を建設すべきだとする意見は、主として欧米諸国の日本周辺への進出、特にロシアの南進という事態に対処する手段として、天明の頃から主張が重ねられていた。幕末になると、対露関係の一層の緊迫化の中で、この意見は更に具体性を増し、松浦武四郎は文久四年(一八六四)に「西蝦夷日誌」凡例で、本府の場所をほぼ札幌辺とし、それによる将来の発展の可能性についても概括的な見通しを述べている。
慶応三年に幕府が崩壊し、明治政府が成立すると、翌四年二月、公卿清水谷公考・高野保建は蝦夷地に関する建議書を政府に提出し、さらに翌三月に再申書を提出したが、この中で本府建設については「箱館所置相付候上ハ、東地巡見イタシ、自然石狩之所ニ引移リ、徳川氏因循姑息之風習ヲ令一洗、奥地開拓之策ヲ運シ……石狩近辺ハ全島要害之地ニ御座候由、彼地ニ根據イタシ……」(復古記)と述べている。ここでは本府建設の地について、旧幕府奉行所のあった箱館をさけるなどのほか「全島要害之地」と位置づけているが、これはすでに近藤重蔵が主張していることでもあった。
明治二年五月に箱館戦争が終結し、七月に開拓使が設置されると、八月に同使は開拓施政に関する要項を政府に提出、指示を求めたが、河野常吉氏によればこの中に「石狩に北海道本府を建つべき経営をなすこと」の一項があり、決定したとされている(北海道史稿本)。九月の島義勇の伺中「……私義ハ函館到着ノ上直ニ石狩ヘ罷越、最前御治定ノ通北海道ノ本府相建候基本ノ取計可仕……」(開拓使公文鈔録-件名番号六として収録)の「御治定」は、この決定を指していることも考えられる。
このようにして札幌本府の建設が開始されたが、この建設は緊急の政治的必要性によって行われたものであると共に、わずかな集落が散在するだけの内陸の地に、交通の手段を講じ、本府と周辺村落を、同時かつ急速に創出するという、日本近代都市建設の中でも特異な性格を持つものであった。
このように本府建設事業は周辺村落も含むものであったが、ここでは開拓使の文書を中心とした公文書類により、範囲を本府の建設に限定し、また対象とする時期も建設の開始された明治二年から、開拓使本庁舎等の建築物及び札幌本道が落成し、市街の形状もほぼ定まった明治六年までとして年代順に配列した。中でも二年から四年はじめ頃まで、すなわち島を実質的責任者として開始された事業が、島の転任で中断され、三年暮れに再開されたとされている期間は、残された史料が乏しいにもかかわらず本府建設の具体的な方向づけが行われた重大な時期なので、収集した史料の大部分を収録した。しかし五~六年についてはすでに知られていることが多く、その上紙数の制約もあって、特に重要と思われるもののみに限定せざるを得なかった。また本府の町名付与、その他の展開過程、および周辺村落の建設は「二 札幌市街と周辺村落の形成」で扱ったが、明治三年羽越からの農民招募など若干については、史料が本府建設と共に出てくる場合が多いことなどから、ここで扱った。
なお、このほか「東久世長官日録」「十文字家文書」「細大日誌」等この時代に欠くことのできない史料があるが、これは「史料編一」に収録することにしたので参照いただきたい。また外人教師等による建都論は、近世における本府建設の意見と一括して、これも「史料編一」に収録する。