札幌が北の本府として計画され、住民を集めるために官により募集が行われ、少数の自然物採集に依存する原住民以外には居住者のなかったいわゆる山林原野に、移り住む人が各地から集まった。それは移住とおよそ縁の遠い、むしろ出稼人であった。これを新しい時代に適応する町村民にすることは、旧社会の風習を打破するとは別の苦心が必要だった。
この人たちの組織化の過程をたどり、歴史的位置づけの材料を提供するのが、本編のねらいである。すなわち、「二 札幌市街と周辺村落の形成」をうけ、移民はいかに相互の結びつきを深め郷土づくりの力を結集したか、統治者はどう地域居住者を掌握し新しい公共団体をつくり出したのかを探ろうとする史料で、また新しい町村づくりの根本にふれる大切なものである。
そのために、行政組織化の過程を次の三項目にわけてうかがうことにした。まず「一区・戸長役場」は、区村の行政機構(業務内容、職員、庁舎等)の成立と展開についてのものである。日本の地方制度史でいう、戸籍法に端を発する戸長と大小区制を経て、いわゆる三新法の施行とその延長線上の期間のものである。
戸長以前の市在役人については、「史料編一」の「細大日誌」の事例に譲るが、開拓使の移民保護策にからむ住民組織や、出身地で既にしくみを背負いこんだ移民団等の流れがあって、札幌は組織過程で文字通りの試行錯誤の場であった。それらが三新法を背景に整理統合される明治十三年(一八八〇)からの体制は、のち二十年におよぶ札幌行政の基本型となった。
「二 総代人制度」では、地域住民の協議制を取り上げた。すなわち、明治九年太政官一三〇号布告をもとに創定される村代表の合議機関の史料を中心に、旧寄合的な伝統を底流に移民団体や村ごとに生まれた集会、組合や村会議、その中核となる伍長組長制の史料をも含めた。これが上意下達の末端機能をはたしたことを考えれば、協議機関とのみ呼べるものでないことは確かだが、区制施行まで有効に機能した意義は大きいといえよう。
そして「三 協議費」は、行政組織の財政的基礎となる租税体系が内容で、なかでも住民に直接かかわる民費・協議費のなりたちと区村費への変遷を探る材料である。ただ、紙幅の制限から共有財産や管財関係をすべて省かざるをえなかったし、国税地方税を含めた行政組織全般の運営にしめる協議費の役割についてもふれることはできなかった。
史料の出典は、開拓使の公文書を編綴した「公文録」と関連簿書や出版物、札幌県の公文書を編綴した「札幌県治類典」が主なものである。それに国の公文書を編綴した「太政類典」「公文類聚」や、明治初年から手広く事業を営んだ石川正蔵の「公私諸向日誌簿」、郡区長を勤めた浅羽靖の文書、白石村をおこした「白石藩移住後継者団体寄託資料」等から抄出した。
さらに、札幌にかかわる明治十九年以降十数年間の行政文書はほとんど残っていないため、「北海新聞」「北海道毎日新聞」「北門新報」掲載の区役所公文や報道記事を取り入れた。しかし、保存紙が不完全で、調査は十分でなく、新聞の特性から史料として限界のあることはいなめない。にもかかわらず収載したのは、空白期をうめる貴重さを評価するからである。
限られた紙数なので、収載史料の選択にいくつかの配慮をした。まず、既刊の市史や道史で容易に見られる熟知のもののいくつかを省いた。とはいえ、全道的な史料でも札幌を理解するのに必要と思われるのは、活字本からでも収載した。
次に、市街にのみかたよらぬようにし、村々の動きを市街と組み合わせ、あるいは対照できるよう心掛けたが、後者の不足はいなめない。また、一史料をもって他の類似施政をおしはかってもらうよう取り上げた文書も多い。
三項目にわけた史料は、それぞれ年月日順に配列したが、その分類は便宜的であるから各項相互に関連することは勿論である。たとえば、町会所建築につき件名番号六〇で短くふれたが、六七、一三三、一三七をも参照されたい。本巻ばかりでなく、「史料編一」にもかかわる文書があるが、それらは重複をさけたのであわせて検索をねがいたい。
なお、文書件名に○○村と付さないものは市街の史料である。配列年月日は伺願類が提出日を、布達告示類はその日を、新聞の報道記事は発行日によった。一部に年の末尾におさめたものがある。
新聞記事の中には、数字を多く使用し疑点の残る個所がある。明らかな誤植は訂正したが、未詳のまま原文によった場合も少なくないので、利用にあたって留意してほしい。