気象観測の前史
札幌での組織的な気象観測は,測候所が開設された1876年(明9)以降である。しかし実際には御雇い外国人来札以降,若干の観測記録がある。さらに気象観測といえるものではないが,札幌に滞在した人々の日記に,天気や風,雨雪などの記述が多数残されている。これらの日記から天候に関する記述を抜き出したものは,「札幌の歴史」(第37号)に掲載した。
開拓使の簿書(開拓使公文録 道文5728)の中に,1871年(明4)12月26日から翌年1月12日までの天候表が1カ月分ほど載せられている。観測者は井手正文と大藤卓雄で,1日3回の気圧,気温,天気,風向に加え,1日の気候の特徴を「目標」として記載している。両者とも札幌在勤中であるから,札幌での観測である。御雇い外国人の札幌視察直後であることから,彼らからの指示による予備観測の可能性があると思われる。
また72年には太政官の史官から開拓使へ,開拓使が「風雨針表」を刊行したというので,参考に三枚ほどもらえるように申し入れをしている。それに対して開拓使は,5月1日~6月9日,8月15日~9月9日分を送ると返答している。その書類には,黒田・西村・田中の印が捺されているので,東京でのやりとりと思われ「風雨針表」自体やその観測場所など詳しいことは不明である。しかしこの書類の件名は,朱で「風雨針表並アンチセル気候建白之件附日表」とある。「アンチセル気候建白」とは,72年9月30日付の建白書のことで,自ら行った東京での観測と横浜での医師・平文(ヘボン)氏の観測を元にしたものである(教師報文録 第四 道図)。あるいは「風雨針表」は,このアンチセルの建白書中の付表かも知れない。
次いで『開拓使日誌』には,74年中「札幌本庁晴雨寒暖ノ表」が載せられている。これは札幌本庁下虻田通第1号邸(おそらく第1号洋造邸,メジョロ邸などと呼ばれた官舎,北1西3)で,試験的に観測されたものである。この観測項目は,晴雨計,寒暖計,晴・半晴・晴風・曇・暴風・雨・雨風・大雨風・雪・雪風・風である。さらに開拓使簿書『寒暖表』(道文642,643)には,余市郡や宗谷郡など数郡の気象観測の一覧表が綴じられている。この表の観測項目は,気圧,天気,温度などであるが,各郡により異なっている。そのため開拓使根室支庁では,74年6月4日にその統一を図るため,雛形を示し,「本月ノ分翌初旬ニ取纏差出」ことを指令し,観測項目は,曇・霧・風方位・烈風・雪・同積尺・同溶解・晴・雨を定めた(開拓使事業報告附録布令類聚)。この項目も先の「札幌本庁晴雨寒暖ノ表」とは異なっているので,開拓使または日本としての統一した方法が確立していなかったものと思われる。
札幌での気象観測
開拓使では,1972年(明5)の函館で気象観測をはじめ,76年には札幌でも気象観測を開始した。76年9月御雇い外国人ボイラーが,東創成通の旧本陣(現南2東1)屋上でアメリカのワシントンのスミソニアン協会の観測法にしたがって,毎日午前7時・午後2時・午後9時の3回観測を開始した。11月1日本陣に測候所を設け,12月に完成した。このときの観測所の位置は,北緯43度03分56秒東経141度22分49秒であった(開拓使事業報告第一編)。この後観測所の位置は,78年6月30日に開拓使民事局地理課内(現北3東1),同年9月30日札幌区山越通(現北4西2,北緯43度03分57秒東経141度22分37秒),90年(明23)8月1日札幌区北7条元農園内(現北8西9-1番地,北緯43度04分07秒東経141度21分50秒),1938年(昭13)7月1日札幌市北2条西18丁目(現在地,北緯43度03分28秒東経141度19分57秒)とかわる。また観測回数は,1881年(明14)万国同時観測(21時33分)の実施,82年7月京都時観測の追加(3回,札幌の地方時に23分を加える),83年の内務省地理局定時観測(日本標準時による,午前午後とも2・6・10時の一日6回)を追加する。83年以降は,計算・報告には,地理局の定時観測を利用している。その後88年1月の日本標準時の採用で,地方時・京都時の廃止,7月から毎時観測をはじめ,12月スミソニアン定時観測を廃止した。報告書や統計書などに報告される数値がどの観測によるものか,全て解明できなかった。『札幌気象百年史』を見る限り,83年まではスミソニアン方式の1日3回,83~88年は,内務省地理局定時観測の1日6回,それ以降は毎時観測の1日24回と理解してよいようである。
気象業務
観測開始当初の観測項目については,寒暖計による戸外の温度測定は,平均として前年・最高・最低・差,周年至極として最高の温度とその日にち・最低の温度とその日にち,周月至極として最高・最低である。晴雨計(気圧)は,全年,最高の度数とその日にち,最低の度数とその日にち。験雨計は,水気張力として,全年・最高の度数とその月日・最低の度数とその月日,湿気として,全年・最高の度数とその月日・最低の度数とその月日。雨計器では,雨雪水積と雪の深さ。春の末雪・秋の初雪・春の末霜・秋の初霜各々の月日,降雨日数・降雪日数・曇天口数。観風器と風力計では,風の方向(16方位),方向日数(4方位),強風として風力・方向・日数,速力として真数総計・1時間平均,風力の進度として,1日間・1時間・24時間の最高度数とその月日・同じく最低度数とその月日・総計。雲平均。変象として,地震の度数と多くある月,雷電の度数と多くある月であった(開拓使事業報告第一編)。
気象台(庁)が行う観測は,当初は上記の通りであるが,その後増え続け,山岳気象,放射能観測,潮汐観測,火山地震観測,高層気象観測,航空気象,等々の観測と短期長期の天気予報などがある
(札幌気象百年史 札幌管区気象台 昭51)。
[図] グラフ1~3
気温の表から
グラフ1~3は,第7表に1945年(昭20)以降の気温を加えて,1877~1995年の年平均気温,各年の最高気温,同じく最低気温をグラフにしたものである。
まず年平均気温を見ると,1890年代の6度台から最近の9度前後へと変化していることがわかる。これは,地球温暖化の影響とも考えられるが,それよりも札幌の場合,都市化による温暖化の方が説得的であるように思われる。1890年代の2~3万人程度の人口が,1990年末の現在では180万人を超えている。そして気象観測所を取り巻く住宅地の拡大,さらにビル街化,道路の舗装など札幌の都市化の進行,それに加え観測所が常に札幌の中心部に近いところに位置することも気温の上昇の原因と思われる。なお1870,80年代が次の90年代に比べて多少気温が高いのは,観測時間が気温の下がる深夜の観測がないためであろう。
年平均気温が低い1884年は冷害による凶作の年である。この年,道外では自由民権運動の激化事件である秩父事件が起きている。その背景には冷害による凶作もあったことを示している。その他に『北海道凶荒災害誌』が凶作年とするのは,1902(明35),31(昭6),32,34,35年,さらに『新北海道史年表』では1926,41,45年をあげている。1931,32,34,35年は連年凶作となったが,それらの年平均気温は31年が6.4度と低いが,他の3年は7.1~7.7度とそれほど低いわけではない。しかしその年の毎月の平均気温,特に第7表から6~8月の気温を他の年と比べてみると,6,7月か7,8月か,2カ月続いて極端に低くなっている。夏の6,7,8月の気温の低い年が,冷害凶作となることが多いように思われる。他の1902,26,41,45年も同様な傾向である。
グラフ2の年最高気温の変化では,おおむね前半期から後半期に向けて多少上がり気味であることがわかる。それに対してグラフ3の年最低気温変遷を見ると,はっきりと1950年代を境に零下20度以下が皆無となっていることがわかる。この傾向も年平均気温の上昇と同様の理由が考えられる。
降水量の表から
グラフ4~7は,第10表に1945年以降の年間降水量を加えて,1877~1995年の年間降水量についてグラフにしたものである。グラフ4は,年間降水量の変遷を示した。全体として漸増傾向といえるようである。それをより明確にするために,グラフ5を作成した。これはその年を含む直前30年間の平均をグラフにしたものである。したがって1906年からはじまる。これを見ると1910年代以降急増し,1940年代以降1100ミリメートルを常時超えている。さらに多少短い期間を観察するために中心となる年と前後5年を加えた11年間の移動平均を示したグラフ6,中心年と前後2年を加えた5年間の移動平均を示したグラフ7を作成した。グラフ6では,1920年代以降の大きな2つの山が目立つ。グラフ7も同傾向であるが,その大きな2つの山がさらに10年前後のサイクルで増減を繰り返しているように見える。
[図] グラフ4~7
参考資料
この統計表を作成するために多くの資料を利用した。統計数値を採用した資料は,各表の出典に明らかにしてある。それ以外のものも含めて,参考とした資料を以下に記しておく。
『開拓使事業報告』(大蔵省編 1885),『北海道気象報文 札幌之部』(札幌一等測候所 1894),『毎時気象観測五年報』(北海道庁 1896),『北海道庁統計書』(各年),『北海道庁勧業年報』(各年),『札幌気象百年史』(札幌管区気象台 1976),『気象百年史』(気象庁 1975)以上の他に,『札幌気象百年史』には参考文献として,北海道庁『北海道気候一班』(1891~1928),同『北海道気象月報』(1904~38)などをあげ,さらに観測野帳や各種観測原簿,観測表のあることを記しておく。
最後に戦後の気象表は,『札幌市統計書』の昭和41年版や同46年版など,昭和元年まで遡っている年度のものもあり,各年版のものと組み合わせると1926~現在まで見通すことができる。