会社・工場・商業者に関する統計の成り立ち
まず会社統計は,1886年(明19)には『北海道庁統計書』に「商業諸会社」という会社一覧表があり,1887年に札幌区の会社が掲載されている。会社の一つ一つを書き上げた一覧表形式はその後中断をはさみ1916年(大5)まで続いており,札幌区,町村部の会社を拾うことにより作表できる。1917年から支庁,区ごとの集計数値のみの掲載に変わる。工場統計も同様に,1886年には「北海道庁所轄工場」という工場一覧表があり札幌区の札幌紡織場が掲載されている。工場の一つ一つを書き上げた一覧表形式はその後中断をはさみ1916年まで続き,1917年から支庁,区ごとの集計数値のみの掲載に変わる。
個々の会社,工場名を書き上げる形式の統計は明治期から大正前半期までに限ってみられるものであり,資料としては具体的な会社,工場の盛衰が明らかになるので貴重である。このような形式が採られた理由に統計調査方法の段階的特質が指摘できよう。すなわち1889年(明22)5月18日の農商務通信規則(北海道庁訓令第24号)は,「農商会社表(一)(資本ヲ株式ニ分割シタルモノ)」「農商会社表(二)(資本ヲ株式ニ分割セサルモノ)」の注に「本表ハ農商業ノ為ニ一場ヲ設ケ会社組合等ノ名義ヲ以テスルモノヽ年末現数ヲ記載スルモノトス」とある(北海道庁現行布令便覧 上巻,1894)。区から道への報告は会社数であった。ところが1894年には個票(カード型)の会社票,工場票が導入され,会社票には「本票ハ一会社毎ニ雛形ノ通リ記入シ之ヲ一括シ其封筒ニ総計何枚ト明記シ進達スヘシ」,また工場票には「一工場毎ニ…」と同様の指示がなされ(明治27年4月28日北海道庁訓令第21号「農商務通信規則」『北海道庁現行布令便覧』1895),個票が上級官庁へ送付されるようになった。これは産業統計における個票調査の画期である。『北海道庁統計書』が個別の会社,工場を書き上げたのも個票があったからこそ継続したのであろう。
しかし個票をすべて書き上げた統計は頁数が増え続けるという矛盾を抱えた。さらに統計調査規則の上からも歯止めがかけられた。1919年の勧業統計取扱手続では会社票,工場票の雛形の注記として「本票ハ之ヲ秘密扱トシ他ニ漏洩スヘカラス」という文言が明記された(大正8年6月27日訓令第61号「勧業統計取扱手続」『北海道庁統計事務例規其二勧業統計取扱手続』年次不詳,小樽商科大学経済研究所-現・ビジネス創造センター-所蔵)。これは会社票,工場票の記述の正確を期すとともに統計表編纂ではプライバシーを保護するという統計調査の近代化を意味する。なお,1889年には会社と工場の区別が不明確であり,「農商会社表」と「工業会社及製造所表」が作られたが,1894年から工業を営む会社は,会社票と工場票を両方提出することが明記され(前掲明治27年4月28日北海道庁訓令第21号(農商務通信規則),会社と工場は概念的に区別された。
商業者に関する統計は,1889年5月18日改正の農商務通信規則によると「商売種別表」が掲げられ,問屋,仲買,卸売の区分をなすこととされている(北海道庁現行布令便覧 上巻,1894.2)。『札幌区(市)統計一班』には国税営業税を賦課された者と道税営業税を賦課された者に分けた商業者統計が掲載されているのでこちらを採用した。
会社・工場・商業者に関する統計の傾向
第139表「会社資本金・積立金・社債」は現札幌市域における会社の設立状況を示している。第139表の合計欄は1917年以降についての第143表「資本金規模別会社数」の合計欄とほぼ連続するが,第143表は資料上の制約から札幌区(市)のみの数値となっている。会社数は,1888年から1917年までの30年間よりも1918年から1937年までの20年間の方がより大きく増えている。なお第139表の株式会社の資本金が1898年に比べ1906年に約半分に減っているのは北海道炭礦汽船株式会社(北炭)が1904年に本社を札幌区から岩見沢村に移したためである。会社数では順調に伸び続けた札幌だが,資本金は1898年の水準を回復するのは第一次世界大戦の終了する1918年を待たなければならなかった。
第140表から第143表は株式会社,合資会社,合名会社,3者の合計についてそれぞれ資本金規模別に推移をまとめたものである。会社全体では資本金5万円未満がもっとも多く,次いで10万円~50万円である。ところが合資会社は5万円未満に集中しているが,株式会社は1921年以降10万円~50万円が最多層となっている。なお1928年から合資会社数が株式会社数を上回るようになるが,資本金では株式会社が圧倒的であり,会社全体にしめる比率は1917年には92.5パーセント,1938年には91.0パーセントにも達している。
第145表から第149表は工場に関する統計である。原資料の統計項目が時期によって大きく異なるために表を分割したが,共通する項目もある。そこで工場数,職工数に関する表1を作成した。
札幌区(市)の工場数は,1887年(明20)から1917年(大6)までの31年間は増加のテンポがゆるやかであったが,1918年以降増加傾向が顕著となり,約20年間に9倍化を遂げる。1921年,1922年が異常に多いが,これは第148表の注にも記したように,職工5人未満工場が含まれているからである。
1880・90年代は一般に企業勃興期と称されるが,札幌の会社数,工場数の伸びはきわめて緩慢であった。むしろ第一次世界大戦期と昭和恐慌からの回復期における発展が顕著である。ところが職工数の推移は工場数の推移と趣を異にしている。工場数が少ない明治期に比べ,工場数が激増する昭和期の伸びが緩慢なのである。そこで表1に1工場当り職工数を掲げた。これによると1918年まではおおむね50人以上で推移してきたが,1919年以後50人未満で推移し,1932年まで年々縮小する傾向を示している。30年代後半には持ち直すものの20人未満にとどまっている。長期的にみると札幌の工場の平均規模は縮小を続けたのである。少数の大工場が設立された企業勃興期と多数の中小零細工場が設立された1920・30年代という対比が読みとれる。もっとも昭和恐慌期には既存の工場の規模縮小も反映していると思われる。
金融に関する統計の成り立ち
『北海道庁統計書』における金融分野は1886年から札幌区のデータが掲載され,1922年までは銀行一つ一つの一覧表形式,1923年以降は支庁,市の集計値となる。銀行はそもそも銀行条例(1890年8月)の第3条に「銀行ハ毎半箇年営業ノ報告書ヲ製シ地方長官ヲ経由シテ大蔵大臣ニ送付スヘシ」(現行統計法規類抄第五輯 1926)と定められ,道庁が各銀行の営業報告書を把握していたことがわかる。ただし,『北海道庁統計書』掲載の銀行統計は,一覧表形式の時も集計値の時も支庁,区(市)ごとのいわば属地主義により掲載された。銀行統計の札幌市分は北海道拓殖銀行本店,北海道銀行札幌支店,十二銀行札幌支店などのように支店単位の数値が別々に(1922年まで)もしくは集計されて(1923年以降)掲載されている。銀行が大蔵省に提出した『営業報告書』には当初は本支店ごとのデータが掲載されても,支店数の増加に伴い,本支店合わせたデータのみ掲載される傾向がある。したがって『北海道庁統計書』の本支店別(地域別)データはきわめて貴重である。
表1 工場数,職工数
出典 第145,148表による。
表2 預金と貸金
出典 第154,155表による。
銀行統計の項目については特に道庁,市が規則を定めている形跡はない。おそらく大蔵省の定めた報告様式にそって営業報告書が作成され,これをもとに道庁,市が統計表を作成したのであろう。したがって,大蔵省規則の変更は統計書にも反映する。1916年に銀行条例が改正され,貸出金,為替に関する項目が大幅に変更された。これにより貸出金のうち割引手形と手形貸付の区別が明確にされ,全国では1915年末に10億円余あった割引手形残高は16年末には4億8000万円余に減少し,代わって手形貸付金が10億4900万円計上されている(加藤俊彦 本邦銀行史論 東京大学出版会 1957)。この点を札幌区内銀行についてみると,16年末の手形貸付残高は前年末の割引手形残高の55.3パーセントに該当するが,この間に割引手形残高は18.3パーセント減少したにすぎなかった。その後,手形貸付の伸びは緩慢であり,割引手形が手形貸付を上回るのが常態であった。16年の銀行条例改正により為替に関する『道庁統計書』の統計項目は大きく変わったが,札幌商工会議所『統計年報』や『札幌市統計一班』の統計項目は改正前と変わらなかった。そのために1935年から札幌商工会議所データを用いた第158表「為替」は統計項目が再び1916年以前の項目に戻っている。
金融に関する統計の傾向
表2は札幌市内で営業していた各銀行の預金と貸金の推移を示したものである。右欄の「預貸率」をみると預金と貸金は著しい不均衡を示し,貸金が預金を大きく上回っている。これは札幌市のデータには北海道拓殖銀行本店分を含んでいるからである。たとえば「預貸率」が209.3パーセント,すなわち貸金が預金の2倍であった1926年には貸金のうち79.1パーセントが拓銀本店の分であった(通史4)。拓銀分が多いことは証書貸付の多さとなってあらわれ,同年の貸金に占める証書貸付の比率は80.7パーセントにも達する。これに対して預金は拓銀の本来業務ではなかったために拓銀本店分は少なく,札幌の預金の32.9パーセントにすぎなかった(通史4)。すなわち拓銀本店の著しい貸出超過(同年では貸金は預金の約5倍)が札幌の貸出超過の原因であった。もっとも拓銀が設立され,営業を開始する1900年以前においても札幌の貸金は預金を上回っているが,その原因はわからない。拓銀本店の貸出業務は札幌以外のかなり遠方にも展開しており,統計書の札幌合計は必ずしも札幌地域経済を示すものではないといえよう。
しかしこのような事情があるにもかかわらず,1930年代後半には札幌の「預貸率」は低下し,100パーセントを割るところにまで到達する。この原因は一つには急激な預金の伸びであろう。戦時体制下の貯蓄奨励がそれである。もう一つにはおそらくは拓銀本店分が大部分を占めるであろう証書貸付の比率の低下と,これに代わる民間銀行が主流を占めたであろう短期貸出の急増である。民間銀行は預金の範囲内でのみ貸出が可能であったから,地域の「預貸率」は急速に均衡したのであろう。
物価・賃金統計
卸売物価については1889年(明22)5月18日の農商務通信規則(北海道庁訓令第24号は「都邑物価」の項で以下のように規定していた。
商品ハ各其同種ノ内立物ヲ定メ置キ其名称(例トヘハ米ナレハ肥後米,食塩ナレハ本斎田ノ如シ)ヲ註記シ其相場ヲ取ルヘシ。若シ其後前ニ定メタル立物ノ相場ナキトキハ成ルヘク同品格ノモノヽ相場ヲ取ルヘシ。右立物ノ内米ハ上中下ノ三等ニ区別シ其他ハ中等即チ並品ノ卸相場ニ拠リ毎月十日間ニ一日即チ一ケ月三度(例ヘハ五ノ日若クハ六ノ日ヲ以テスルカ如シ)ノ相場ヲ平均シテ記入スルモノトス。
(北海道庁現行布令便覧 上巻,1894)
すなわち各商品の品種・銘柄・等級については立物という概念で注意が払われていたこと,毎月3回の調査を指示していたことがわかる。そのため統計編の卸売物価統計表では注に各年の立物一覧を掲げた。物価調査に選ばれた立物(銘柄)が,より多く市中に出回っていたと解釈すると,立物の変遷は,内地からの移入品に道産品が取って替わる過程を示しているともいえよう。
1889年の統計表雛形は毎月の記入欄があり「毎月調」とされていた。しかし札幌,小樽,福山,江差,函館,釧路,根室という市街地のみの調査とはいえ,毎月調査報告には無理があったと思われる。農商務通信規則1894年改正により「物価表」として調査地が郡区役所所在地に拡大される一方,調査時期は3・6・9・12月の年4回となった(明治27年4月28日北海道庁訓令第21号「農商務通信規則」『北海道庁現行布令便覧』1895)。もっとも『道庁統計書』掲載の物価統計は年1回の数値のみであり,年4回分の数値が掲載されるようになるのは1907年からであった。なお調査対象は1899年から「支庁所在地」とされた(明治32年10月13日訓令第60号「農商務通信規則」『北海道庁現行布令便覧』1903)。
ところで統計編掲載の累年統計を作成するに当たって,各商品の単位が時期により異なることが大きな障害であった。単位はすべて農商務通信規則中の物価表の雛形に明記されており,これに従って統計を作成しようとしたと思われる。道庁も大正期には物価統計が継続性を有することの重要性を認識したようで,1919年「勧業統計取扱手続」において「量目ニ相違ヲ生スレハ其ノ価モ亦昇降スルハ勿論ナリ。故ニ同一量目ニ対スル価ヲ調査スルハ最モ必要ナリ」とし,立物についても「立物確定セサレハ価ノ騰落ヲ論スヘカラス」と注意していた(大正8年6月27日訓令第61号「勧業統計取扱手続」『北海道庁統計事務例規其二勧業統計取扱手続』)。しかし実際の卸売物価統計は,昭和期に入っても単位の揺れ(変更)がみられた。
都市の発達,社会政策の登場は,小売物価への関心を高めさせることとなった。商工省は1925年(大14)から東京,大阪,名古屋の商工会議所に調査をさせ小売物価及び小売物価指数を算出しはじめ,29年11月の「物価調査規則」により卸売物価指数の13都市(北海道は小樽)の100品目につき調査を開始したが,30年7月以降30都市116品目に拡大した。調査方法は各都市の商工会議所が地区内の信用確実な業者3店以上を選び毎月16日における価格を報告するというものである(日本統計研究所 日本統計発達史 東京大学出版会 1960)。『北海道庁統計書』の小売物価表が1930年から掲載され始めるのは上記の事情によるものと思われる。ちなみに1937年3月の小売物価につき『札幌商工会議所月報』と『道庁統計書』を比較すると,品目は必ずしも両者で一致していないため,札幌商工会議所調査がそのまま道庁統計書に用いられているわけではないが,一致する品目については数値もほぼ同一であった。札幌商業(工)会議所の『統計年報』『月報』に掲載される卸売物価,小売物価の統計表は毎月のデータが掲載され,立物表記が詳細であり充実しているが,資料の揃い具合から本統計編では『道庁統計書』の系列を資料とした。
賃金統計は,1889年の農商務通信規則において札幌,函館,根室市街につき毎年6月,12月の平均を報告すること,養蚕,酒造稼人など季節を限る者はその期間の平均を掲げること,そして「一ケ月給料ノモノハ食料ヲ加算スヘカラス,一日賃銭ノモノハ食料ヲ加算シタルモノヲ掲クヘシ」とされていた(北海道庁現行布令便覧 上巻 1894)。雛形には職種により1日賃銭か1カ月給料かが明記されている。1895年改正により調査は郡区役所所在地,時期は3月,9月の2回,賃金の形態の欄は空欄とされ「労務者ノ種類ト地方ノ慣例トニ依リ日給月給又ハ年給ニテ記載スヘシ」と調査者側に委ねられた(明治28年10月3日北海道庁訓令第36号「農商務通信規則」『北海道庁現行布令便覧』1896)。その後いくつかの変遷を遂げ,1919年「勧業統計取扱手続」では,調査地は支庁所在地,時期は3・6・9・12月の年4回,賃金形態は農作年雇以外すべて日給とされ,賄有無を記入する欄が設けられた(「勧業統計取扱手続」『北海道庁統計事務例規其二勧業統計取扱手続』)。
流通に関する統計
道庁統計書には港湾の商品移出入統計のみ掲載されており,内陸都市についての商品移出入統計はない。ただし札幌商業会議所が『統計年報』の「交通」欄に「鉄道貨物出入噸数表」「重要貨物移出入噸数調」を掲載している。原資料は鉄道省札幌鉄道局と思われるが,同所『鉄道局統計年報』には「札幌運輸事務所」単位の貨物発着統計しか掲載されていない。札幌商業会議所統計は1906年から1911年までは「札幌駅鉄道貨物輸出表」のように札幌駅の数値であることが明記されている。1912年以降の札幌商業会議所統計の表題は「鉄道貨物輸出入噸数表」となる。貨物移出入では重要な役割を果たす苗穂駅が1910年に開設される。統計編の資料として1929年からは『札幌市統計一班』の札幌駅・苗穂駅の合計数値を用いた。28年以前の数値との連続性から判断して札幌商業会議所統計も苗穂駅を含んでいた可能性はある。
貨物の発送では1931年までは札幌駅が苗穂駅を上回っているが,32年以降両者の地位は逆転し,38年には札幌駅14万4554トンに対して苗穂駅20万3948トンになっている。商品別内訳をみると,セメント類は29年から34年まで,鉄及鋼製品は29年から38年まで苗穂駅が上回っていた。この間の変動が著しいのはビールで,29年には札幌駅1万2644トン,苗穂駅771トンであったものが,32年に逆転し,38年には札幌駅3324トン,苗穂駅1万3188トンと大きく差をつけている。これが両駅の貨物発送量合計に影響したものと思われる。