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総説

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11 社会事業
賑恤規則
 第295表はおもに1873年(明6)4月の「賑恤規則」に基づいた救助の状況を示したものであり,1932年(昭7)7月の「救護法」の施行により,第296表に引き継がれる。この「賑恤規則」とは,開拓使が定めた「北海道樺太州窮民賑恤規則」を指し,和人・アイヌ民族の区別なく,鰥寡孤独老幼を保護する目的で定められた。この「賑恤規則」は,1876年8月さらに諸種の条件あるいは状況に適応させて内容を詳細にした「改定賑恤規則」に改められた。この中では,「独身廃疾ニテ産業ヲ営ム能ハサル者並独身ニテ七十歳以上及挙家七十歳以上」の者をはじめ,独身重病者,流行病罹患者や天災で饑餓に迫る者等と厳しい制限を設けていた。それには,この規則が純粋に貧民を救済するということよりも,異教の抑制と皇威の浸透とを背景として打ち出されたという要素をも内在していたからである(新北海道史 第3巻)。この規則は,やがて1886年(明19)の北海道庁期以降も引き続き適用された。救助人員は,1905年(明38)の日露戦争時においてもたった4人という具合に少なく,1910年代は20人前後のほぼ横ばいで推移し,1927年(昭2)以降やや上昇傾向をたどる。
 
社会事業関係諸表
 昭和の初期,経済界は未曽有の不況に陥り,倒産者・失業者が続出し,社会事業の活動が要望されながら,財源難に苦しむ状況であった。1928年(昭3)社会事業調査会が救貧法の必要を具申,翌29年4月「救護法」(法第39号)の公布をみた。しかし,財源の問題から引き延ばされ,施行は32年のことである。これによって65歳以上の老衰者,13歳以下の幼者,妊産婦,精神または身体に障害があり労務を行えない者が貧困によって生活できない時に救護するとされ,公的扶助義務が初めて認められた。救護の実施機関は主として居住地の市町村長,国費による救護費は都道府県・市町村の負担した費用の2分の1以内を補助することとした。救護の種類は,生活扶助,医療,助産,生業扶助に限定されていたが,実際には埋葬,移送も該当した。第296表からもわかるとおり,救護人員は生活扶助の場合1936年から39年の不況期に集中し,以後戦時下は減少傾向をたどるが,救護費合計においてはむしろ増加をたどっていることがわかる。
 つづく1937年(昭12)の「母子保護法」は,「救護法」においても母子の救護は行われるものの,幼少の子女を擁して生活難にあえぐ多くの母親は,その救護範囲外におかれ,立法がいそがれた。第297表は38年から施行の「母子保護法」の内訳であるが,養育扶助費の方が生活扶助費をはるかに上回り,1945年を除いて扶助費合計も年々増加したことがわかる。
 第298表は職業紹介に関する統計である。札幌市における公立の職業紹介は,1921年(大10)の「職業紹介法」の施行より1年前に札幌区が開設した事業に始まる(市史 第4巻)。表からもわかるとおり,この時期はもっとも不況の著しかった時代の実績で,1932年(昭7)には失業者数が1万人台を突破した。それとともに男女別でみると,女子の求職者数が急増し,就職者数と対比しても33年までは女子の方が就職率でも男子を上回っている。これは不況時において女中や子守といった女子の需要が男子より多かったからといえる。
 なお,札幌市立職業紹介所は,「職業紹介法」の改正により38年,国営に移管された。 1946年10月,「生活保護法」が公布された。これは,GHQの指導と示唆を得て立案したものであるが,従来の「救護法」「母子保護法」「軍事扶助法」「医療保護法」の個別な保護法規を廃止した一元的保護法規であり,生活保障の原則を確立し,その8割は国庫において負担された。第299表がそれである。
 第300表は戦後の社会福祉施設の統計である。「生活保護法」(1946),「老人福祉法」(1963),「児童福祉法」(1947),「身体障害者福祉法」(1949),「精神薄弱者福祉法」(1960),「売春防止法」(1957)等といった社会福祉関係法別に整備された施設を中心にまとめた。