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総説

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13 消防・警察・兵事
消 防
 明治初期の札幌における火災消防事情は,きわめて独自の動きをみせた。たとえば,庶民の農耕,牧畜,家屋づくりが立木の焼き払いから始まり,開拓方法として野火を用いたこと,反面,野火は既設の家屋を焼失させる危険性をもち,家屋は草小屋と呼ぶ燃えやすい材料のものが多く,失火による延焼被害が大きかったことがあげられる。1872年(明5)春の世に言う「御用火事」は,この悪循環を断ち,区画整理と住宅改良を促進し,街づくりの成功を目論見たのである。これらはおそらく統計的に火災としてカウントされることなく,開拓使は野火失火の禁止をくり返し布達していたと思われる。
 こうした状況に転機をもたらしたのが79年開拓使本庁舎の焼失であった。火事における消火活動の指揮権があいまいなために混乱を生じ,事後その反省を迫られ,郡区町村編制法の適用ともかかわって,新たに市街消防規則が制定された。これによって札幌の火災水害の現場指揮権は警察署に一本化され,消防事務も移管されていく。それにともない火災統計は警察署の所管として定着する。
 札幌市中の消防組織は,「御用火事」に際して設けられた私設消防組に始まるといわれ,74年(明7)消防規則として成文化,翌年水防をも任務に加えた。79年の市街消防規則で一層の増強をみたが,他方で祭典の雑踏整理,夜警,治安維持にも関わって警務的業務に介入していく。そしてついに92年(明25),消防組は新聞社と総代人宅乱入暴行事件を起こし,改編を迫られた。たまたま94年勅令15号の施行により,消防組の設置区域は市町村の区域により,警察署長が指揮することとなり,札幌独自の展開をみせてきた火災消防事情は,全国統一的な動きの中に位置づくこととなった。
 こうした変遷を統計表に作成するのは難しい。第304表の場合,79年以降統計調査がなされていたと思われるが,その資料は不明で,札幌県政期にも欠年がある。また,消防組織は市(区)町村の区域を設置単位とし経費を支弁するが,所管が警察署のため,統計作成の単位が市(区)内か署管内か不明確なことが多く,累年性に問題を生じかねない。
 この種の統計としては,『札幌消防百年の歩み』(1971)に,1926~69年の火災件数,焼損面積,損害見積額が収められているので,あわせて利用いただきたい。また,太平洋戦争後のいわゆる自治体消防期の統計は,札幌市発行『消防年報』『札幌市統計書』に求めることができる。
 
警 察
 開拓使設置当初の札幌では,警察業務を開墾係や刑法係が裁判,行刑にあわせて担当したので,独立した警察統計は作成されなかったと思われる。1872年邏卒(のちの巡査)を募集し仮屯所と分屯所を市内に置いた。さらにこの年太政官は50人の邏卒札幌配備を正式認可したので,これをもって札幌の警察起源とすることができる。
 検事職制や行刑業務を司法省に残し,警察業務を内務省が所管するのは75年5月であり,北海道では同年12月に開拓使が行政警察規則を施行して全国的な制度に沿う改正がなされた。札幌の警察がほぼ全国的な制度の中に組み込まれるのはこの時からである。開拓使はこの規則で区内の事故を月報として報告することを求めたので,ここに一定の様式による警察統計が成立した。『開拓使事業報告』第5編228頁以下の警察表はそれらをもとに編成されたのであろう。
 しかし第311~313表において,これを採用しなかった。何故ならば,77年発足の札幌警察署(以下本署)の管轄区域があまりに広大にすぎて,札幌市史の統計としては不適格と考えたからである。すなわち,本署発足時の管轄区域(小樽分署域を除く)は,現行支庁制の石狩,空知,上川,十勝,そして胆振,日高,留萌,宗谷のほぼ全域である。
 本巻収載の警察統計は札幌県設置後の本署の数字からとしたが,それでも前4支庁をほぼその管轄区域にしていた。その後,石狩,余市,古平,空知,樺戸,勇払,大津,宗谷の分署が新設され,その都度本署の統計から分離した。道庁が設置されると,87年(明20)から1郡区1警察署制になり,新札幌警察署となったが,その管轄として札幌(村),琴似,手稲,山鼻,豊平,江別,岩見沢の7分署が新規に置かれ,これらもまた漸次警察署に昇格し,本署の統計から分離していった。
 さらに,97年郡役所の廃止,19支庁制の実施にともない,1支庁1警察署制をとることになり,札幌支庁管内に新々札幌警察署が置かれ,江別,石狩,厚田,茂生の4分署をもつことになる。この改正による札幌警察署の管轄区域は4分署域を除くと,現札幌市域にかなり類似することとなった。こうした度々の変遷を条件に加えて,警察署管内の統計を使っていく必要がある。
 
兵 事
 札幌の兵制は,1896年(明29)の徴兵令施行,1904年の屯田兵条例廃止をメルクマールとして,その前部を屯田兵制期,後部を徴兵令による軍管(第7師団)制期に2分することができる。
 前部にかかわって第315,316表を作成した。この内,第315表では1882,84,85年の戸数,人員が確認できなかったが,『札幌県治類典』を精査することにより,後日補記できるのではないかと期待している。また開拓使期の兵員・家族数も推計を避け,あえて不明のままとし,合計数のみ記載しておいた。これらはさらに年齢構成別に再編し作成し直すことができそうである。第316表は屯田兵村関連の用地が市域全面積に占める割合を算出できるように作成した。1900年の調査を出典とすることにこだわったのは,屯田兵が北海道に入地し終える1899年以降で,しかも給与地の私有化(登記),売買が公認される1901年以前の数字が欲しかったからである。しかし,琴似兵村ではすでに地区改正が進み,かなりの返還地を生じており,その面積はここに含まれていないので注意を要する。この土地でどのような殖民事業が営まれたのかを明らかにする統計の作成を試みたが実現しなかった。それには各年刊行されたらしい『屯田兵〓穡表』の所在を掘り起こし,『開拓使事業報告』第5編31頁以下の表と接続することにより可能となろう。今後の課題である。
 後部にかかわって第317,318表を作成した。いずれも市(区)役所兵事係の業務上の統計であるが,『札幌市(区)事務報告』と『札幌市(区)統計一班』では数字が異なる。また『道庁統計書』とも違うのは何故だろう。数字の出所はいずれも兵事係と考えられるから,たとえば壮丁が札幌に本籍を持ち遠隔地で受検して,その報告が後日届いたため修正するような場合も想定されよう。他の統計にもこうした差異は珍しくないので,注意しなければならない。また,市内軍人数の統計表は作ることができるが,軍用施設とその兵員配置の資料は入手できなかった。また出身戦没者遺家族統計も困難はあるが可能だろう。