大都市のどまんなかの自然

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アスファルトやコンクリートでびっしりおおわれてしまっている現在の品川区の地域には、「自然」はなかなか見出だせない。ここに生活する人々の多くは、自分たちの足もとに黒い土や褐色の土があることに、思い及ばないであろう。こうした大都市のどまんなかにある品川区も、昭和のはじめには、まだあちこちに緑の田畠や雑木林が残る郊外であった。遡って、明治の初めには、品川宿をのぞくと畠と水田、それに竹林や雑木林におおわれた武蔵国荏原郡の農村そのものであった(資料篇 地図統計集六~二一ページ参照)。こうした「よき」時代には、ひとびとは耕作の鍬や鋤の歯先をとおして、大地をつくる土壌の様子を敏感に感じとり、どこそこは××の栽培に具合がよいとか、水はけがよいとか悪いとか、円磨された砂利がでるから、あそこはむかし川であったろうとか、生活の実感として知っていたにちがいない。生活と自然とがじかに触れ合っていたのである。そんなに遠くない昔でも、まだ多くの道が鋪装されていなかった戦前には、雪どけや霜どけのぬかるみに足をとられて、関東ロームの始末の悪い性質を感じとったことであった。

 さて、ここではいたずらな回顧趣味を綴るつもりはない。ただ、この都市化のすさまじい百年の間の、品川区の土地自然の変わりようは、太古の昔以来、営々とつづけられてきた自然そのものによるうつりかわりに比べて、何と速いことかを述べたかったのである。

 それは、地表をおおう人工物の景色の変化のみではない。台地は削られ、川の流れも変えられ、そして海も大幅に埋め立てられた。土壌もその性質をいちじるしく変えさせられた。区内の台地の上には、農民によってクロボクとよばれた厚さ五〇センチメートルくらいの黒土が、ほんらいはあった。これは後述のように、過去一万年の間に、富士の火山灰が徐々に堆積し、それに腐植がまじって生じた腐植質火山灰層である。またそれは、主に縄文式土器以降の、考古学的遺物包含層でもある。ところが、この黒土層が完全な姿で保存されているところは、いまや区内ではほとんどない。この部分を掘ると、たいてい多種多様な「現代人の遺物」がごそごそと出てくるのである。