品川区域の自然条件のなかでまずとり上げなくてはならない特徴は、低地と台地からなる地形、つまり階段状の地形をなすことである。これは隣接する大田区・港区・目黒区などにも共通する。
低地は、東部の海岸平野と目黒川・立会川沿いにある主に海抜五メートル以下の低平な平野である。台地は多くの谷に刻まれるが、上にのぼると平坦で、海抜一五メートルから三五メートルに及んでいる。
細かい地形の様子は、案外、区内の古い地名によく表わされているものである。地名だけ聞けばそこはどんな地形のところかがわかるほどである。たとえば、鮫洲(さめず)なる地名は、明らかに海岸に沿う砂洲に由来するし、五反田・百反・辻田(後二者は現在の大崎一丁目)はいうまでもなく水田の拡がる広い沖積低地を示す。また台地を刻む小谷には、各地に谷戸(やと)とか窪とかのついた地名が冠せられる。桐ヶ谷・幡(はた)ヶ谷・池ヶ谷は目黒川右岸の地名であり、蛇窪(現在の二葉二、三丁目豊町四丁目付近)は立会(たちあい)川に合流する支谷の地名である。またごく簡潔に谷戸・谷戸窪(いずれも目蒲線不動前駅付近)という普通名詞的な地名もある。
また台地を示す地名も多い。権現台(ごんげんだい)・浅間台(あさまだい)(ともにいまの大井町駅付近)はそのものずばりだし、御殿山・池田山それに金子山(西大井四丁目の一画)・佐古山(西大井五丁目の富士見台中付近)などは、開析のすすんだ高い台地を示している。また、大井や藪清水(やぶしみず)(いまの戸越二丁目の一部)は水に乏しい台地で、井戸や湧水の重要性を語っている。小山・平塚、それに荏原そのものも、平坦な台地面に基づいた地名である。
低地と台地のちがいは、土地利用を画然と規定している。それは明治初期の土地利用図(資料篇 地図統計集六~九ページ参照)をみると一目瞭然である。水田は沖積低地に展開して細長くのび、その谷頭部などには灌概用の溜池があった。地下水面の深い台地では畑耕作がおこなわれ、水の得られやすい崖端などに集落があった。
都市化のすすんだ大正以後にも、地形条件と人文景との対応はやはり見分けられる。大工場は立地条件のよい低地を求めて、目黒川や立会川の低地に進出した。そして高燥な台地の上には、東京郊外の田園住宅地が展開されるようになった。