四つの段丘

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武蔵野の地形・地質については、明治初年にわが国に欧米の近代的地質学や地形学が導入されてから今日までに、他の地域に例をみないほど数多くの研究がおこなわれてきた。その学説史はさながらわが国の地形・地質学研究の縮図であるともいえる。そのなかで地形区分については、東木竜七(1)のすぐれた研究が先駆をなすといえる。戦後になってまもなく、地形の高低、開析度などにもとづく台地面の新旧の推定が、貝塚爽平・戸谷洋(2)によって、段丘砂礫層をおおう風成火山灰の堆積状態から地質的にも裏づけられたのは、特筆される研究であった。

 その結果、武蔵野台地では、高さと火山灰の厚さを異にするつぎの四つの段丘面が識別された。それは古いものから順に、淀橋台(荏原台)・豊島台・本郷台・立川台である(第一図参照)。なお、武蔵野西部で、台地より高く島状に分布する狭山丘陵は、高さや開析の程度からみても、明らかにこれらの台地よりひと時代もふた時代も古いブロックである。

 ここでわけた四段丘面、それに沖積低地面を加えると、それらとそれぞれ同時代と考えられる地形面(平坦面をいう)は、わが国各地で見出だされている。

 このような平坦地形面は、河川や海のはたらきが、しばらくの間、安定状態にあるときに、広い扇状地や三角洲あるいは海食台として生じたものである。この安定状態というのは、いくつかの地形形成条件が醸しだすものである。海岸に近い平野地形の場合、諸条件のなかでもっとも重要なのは、海面の垂直方向の安定ということであろう。陸上の浸食はすべて海面を基準としておこなわれるからである。第四紀において、海面の陸地に対する変動は、最近の知見によると地殻の上下運動よりも、氷河の盛衰にともなう海水量の増減に起因する、いわゆる氷河性海面変化に重点が置かれている。だから、海面の安定性は、その当時の気候とか、古水文条件とかの安定性と大きく関係をもつ。こうした諸条件の変化は、たんに一地方だけで起こるものではなく、起これば、その影響は広域に、むしろ世界的といってよいほどの範囲に及ぶと考えられる。したがって、海面の安定性にささえられた、ある地形面とその構成地層とは、自然史のうちの一時代を代表するとみて差支えない。この意味から前述の地形面は南関東で詳しく調べられ、代表名として下末吉面・小原台面・三崎面・立川面とよばれている。これらは日本の第四紀後期の編年において、いわば標準時計の役割を担っているのである。