五反田駅付近の高い建物にのぼって目黒川低地の両側を眺めてみよう。東北側には、御殿山から池田山にかけて、かなり高い台地(ここでは高輪台と呼ぶ)が急な崖をつらねている。また反対の西南側では、立正大学から目黒不動にいたる台地(目黒台と呼ぶ)が、比較的ゆるやかなすそを目黒川の方へのばしていることがわかるだろう。
第2図 立正大学付近の目黒台から見た高輪台と目黒川低地(広報課提供)
手前の駅は大崎広小路,中景の駅は五反田,この二つの駅も,目黒川低地に高架駅としてつくられた。五反田駅と山手線の背後に,ところどころこんもりとした森のある高台が高輪台である。
この目黒川低地をはさむ両側の台地は、もともとひとつづきの台地だったものが、目黒川が切れ込んだために、二つに分けられたといったものであろうか。まず、低地からの比高を測ってみると、目黒川から直角に高輪台の最高所までは、目黒駅でも五反田駅付近でも、約二五メートルと測れる。いっぽう、目黒台の方では、約二〇メートルとなり、前者よりも五メートルぐらい比高が小さい。また、地形図(第3図)について、等高線のはしり方をしらべてみよう。高輪台の台地表面は、品川・目黒両区の境では海抜三〇メートル、その対岸の目黒台では、二七・五メートルと読める。そして、海抜二五メートルの太い等高線は、高輪台では、品川駅から田町駅に面する台地東縁部まで画かれているが、目黒台では、池上線の戸越銀座付近でおわり、それから東南へだらだらと低まって、大井海岸に面するところでは、海抜一六メートルとなる。また、等高線の屈曲の程度に注意してみよう。高輪台の等高線は、じつに屈曲に富んでいて、谷が多いことを示しているいっぽう、目黒台の方は、たしかに谷を示す等高線の屈曲はみられるものの、その数(密度)は、高輪台のそれより明らかに小さいとみなくてはならない。第4図には地形図から読みとれる谷系の分布を示した。
このように、高輪台と目黒台とは、その地形の性質にかなり差が多い。台地面の高度が高輪台の方が高いこと、台地の開析(谷により刻まれること)は明らかに高輪台の方が進んでいることの二点は、両台地がひとつづきだったのではなく、目黒台より高輪台の方が、はるかに古い時代に台地の原面がつくられたことを物語る。もともと、台地というのは開析の過程にある旧扇状地または、三角洲あるいは海食台である。だから、浸食作用に関する他の条件にちがいがなければ、時代が古くなるにつれ、台地の開析度は大きくなるわけである。
台地の勾配に注目してみると、高輪台より目黒台の方がやや急勾配である。これは地質とよく符合しており、その成立過程を反映している。すなわち、目黒台は主に河川が運んできた礫からなるのに対して、高輪台の方は、浅海にたまった砂からできている。もともとできたときの勾配が違っていたのである。
高輪台のつづきを当区から北西方向に追うと、代官山から淀橋、そして京王線の下高井戸駅付近まで追跡できる。下高井戸では海抜四五メートル余りである。また目黒川の北東を流れる渋谷川―古川の谷の北岸にも、この台地はつづき、新宿から千代田区西部一帯をおおう。これらは、従来地形学者により一括されて、淀橋台と呼ばれていたものである。当区内の高輪台はその南東端にあたる。