さきに目黒台は高輪台より新しい台地だとのべた。それでは目黒台の南西方に、淀橋・高輪台のつづきはあるのだろうか。
目黒から目蒲(めかま)線あるいは五反田から池上(いけがみ)線の電車にのって、目黒台を横切ってみよう。両方とも目黒川の谷を高架で渡って台地にさしかかると切り割りを通り、登り気味となって広々とした台地原面に出る。武蔵小山・荏原中延(なかのぶ)の付近は、ずっと道路と線路が平面交差だ。ところが、西小山と旗の台でそれぞれ立会川の、ごく浅い谷を渡ると、線路はすこし登って切り通しを通る。目蒲線の洗足の付近も、池上線の旗の台~洗足池(せんぞくいけ)間も、道路は線路を高架でまたぎ、台地面は線路よりかなり高い。このことを地形図(第3図参照)でみてみよう。立会川の左岸、つまり目黒台地は西小山・旗の台付近では、立会川の谷底から五メートル程度の比高があるのに、右岸側では台地表面まで一〇~一五メートルもの比高がある。これが電車の線路を切り通しにした地形条件である。
この立会川右岸の、目黒台より高い台地は、淀橋~高輪台とかつて一連のものだったのだろうか。立会川右岸では谷の密度はさほど大きくはないが、そのつづきと考えられる大田区馬込一帯の台地は、高輪台と同様に、細かな谷で刻まれていることが第3図や第4図からわかるであろう。標高も洗足付近で三七・五メートル、台地の先端部で二二・五メートルあり、高輪台とよく似ている。そしてこのつづきを西北方へ追ってみると、環七道路沿いにつづき、碑文谷(ひもんや)・駒沢(こまざわ)、そして小田急線の千歳船橋(ちとせふなばし)駅付近(海抜四五メートル)まで追える。
この一連の台地は、「荏原台」と呼ばれている。その地形・地質の様子は、先述の淀橋―高輪台と似ており、かつて一つづきだったとみなすことができる。ともに、同時代に浅海底だったところが陸化し、河川に刻まれて分離したものである。この河川は、目黒川や立会川のような小河川ではなく、後述のように目黒台をつくる礫層を運んだ古多摩川と考えられる。目黒台は古多摩川の氾濫原であった。
淀橋・荏原台は、東京都内よりも多摩川右岸の川崎市および横浜市の範囲に広く分布する、下末吉台地に対比できると考えられている。なお下末吉台は、わが国の第四紀後期の標準地層である下末吉層から成り、詳しく調査されている。対比の根拠は、地形的特徴の類似性にも求められるが、後述の火山灰層および海成層の類似からも論ぜられる。
また目黒台は淀橋・荏原両台地をとりまく広い武蔵野の「豊島台」とほぼ同時にできたものである。その根拠も、後述のような地質構成、なかんずく礫層直上にのる関東ローム層の層位に求められる。そしてこの時期につくられた台地面は下末吉面と同様、南関東に広く分布する。