第4図のように、当区の水系は目黒川系と立会川系との二つに分けられる。
目黒川は杉並、世田谷の区境である上高井戸、烏山付近に源をもち、淀橋台と目黒台の間を流れ下って、品川宿で東京湾に注ぐ長さ約一七キロメートルの小河川である。いまでは改修工事のため直線流路をもち、コンクリートで囲まれた人工河川であるが、明治期の地形図によると水田化された沖積低地のなかを細かく蛇行して流れていた。そして河口部では、南・北品川宿を分け、大きく北に迂回して歩行新宿で海に注いでいた。この河口部の大迂回は、どの川にもよくみられることで、南からの沿岸漂砂のため、河口閉塞がしばしばおこったことによるものである。洲崎というこの付近の古い地名は、目黒川から搬出された土砂の堆積で、突出した三角洲が生じたことを示している。
この目黒川沿いには、幅三〇〇~七〇〇メートルの平坦な谷底平野がある。明治十四年の地形図によると、谷山村すなわちいまの五反田駅周辺から下流には、河道沿いに細長く畑があり、ごく小規模な自然堤防ができていたと推定される。後述のように、この谷底平野をつくる地層や周囲の台地にある貝塚の分布から、いまの目黒川低地の海抜三ないし四メートル以下の部分には、縄文時代(いまから五~六千年前)に海が入っていたのである。
第4図のように目黒川の支谷は数多い。左岸の高輪台に発する谷は源頭部が急傾斜で、その縦断形は上に凹形を示すが、右岸の目黒台からの谷は、谷頭部が浅く、下流でやや深いものが多い。上下水道のなかった昔には、これらの谷の水は地下水によって涵養されていた。後述のように、とくに目黒台の方は、地下水を貯め易い砂礫層があるため、地下水に恵まれている。目黒不動・桐ヶ谷の氷川神社をはじめとし、支谷にのぞむ台地の崖には湧水が多い。戸越公園の池もこうした湧水に養われており、三井邸の庭園の池となるまでは、灌漑用水として使われていた。
立会川は、目黒区の弁天池(いまの碑文谷公園の池)および清水池という湧水を利用した溜池に発し、目黒台と荏原台との間を、ごく浅く刻んで品川区に入る。当区内でも、浅く、沖積低地もせまい。大井町駅の南で台地をおりて海岸平野を横切り海に注ぐ。流程わずかに七・四キロメートル。全体として浸食力が弱いので、川の縦断面形は台地の原地形に支配されることが多く、目黒川に比べ急勾配である。河口部では、目黒川のように明瞭な三角洲をつくっていないが、海岸平野の海成沖積層の上に薄い砂礫を堆積させたことが、京浜急行電鉄立会川駅付近の試錐からわかる。
ところで、目黒川沿いの斜面の地形で目をひくのは、高輪台側と目黒台側とで、斜面の勾配がいちじるしく異なることである。すなわち、高輪台の南西側の崖はきわめて急で、つづら折の道でひとあえぎしないと台地の上にのぼれない。それに対して、目黒台の北東面の崖はかなりゆるく、だらだら登りで、いつの間にか台地の上にのぼってしまうといったちがいがある。目黒川低地と高輪台を境するこの急坂は、明治後期にいたるまで、都心と郊外を分ける大きな自然の境界であった。明治期の地形図によると、高輪台には江戸時代の諸侯および明治時代の元老級の人々の屋敷が建てられ、高級住宅となりつつあったが、目黒川以南は当時まだ純農村の状態で、都市化の様子はこの谷を境にしてまるで異なっていた。
南向きの斜面が北向き斜面より急という、非対称的な谷形をもった谷は、じつは目黒川ばかりでなく、武蔵野台地や多摩川右岸の丘陵・台地地域にいくらでも見つけることができる。どうしてこうした谷ができるかについては、いろいろな推論が試みられたが、貝塚爽平(4)の霜食作用の斜面方向による差異に求めた説明が、説得力がある。