変貌いちじるしい海岸平野

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都市化につれて区内でもっとも地形が変わったのは、なんといっても海岸である。第5図には海岸の埋め立てによる変化が記入してある。


第5図 品川沖の海底地形図
  首都圏整備局(5)による。等深線は2メートルおき。S;砂 fS;細砂 M;泥(いずれも底質)埋立地の竣工年は「東京地盤図」(6)による。

 もともと、大井や北品川の海岸平野は、台地を切る海食崖の下に、細長く分布するものであった。ことに北品川以北では、海岸平野はほとんどなかった。いまの品川駅・田町駅・芝浦は海の上であった。また、権現台・浅間台の台地がつき出た先の鮫洲の付近も、平野の幅はごくせまい。こうした海岸では試錐の資料によると、沖積層の厚さは数メートルとごく薄い。だから、これらは海の浸食作用で生じた、いわゆる波食台の地形といえる。

 大井から南、大森海岸にかけては、海岸平野は幅広くなる。南するにつれ、つまり多摩川の河口に近づくにつれて三角洲の地形が明瞭となる。旧東海道沿いには、多摩川河口から北にのびる砂洲が明らかである。だから、南部の大井海岸は、堆積性の海岸平野であるといえる。試錐でも、沖積層はやや厚く二〇メートルぐらいが知られている。

 資料篇地図統計集の第3図には、干潮時の干上がる干潟の様子が画かれているが、その幅は海岸平野の広さとかなりよく対応しているようにみえる。目黒川や立会川の河口部では搬出土砂のため干潟は広く、また大森海岸も南するにつれ、干潟はいちじるしく広くなる。

 海岸の埋め立ては、当区の都市化と呼応して、第一次大戦後爆発的にすすんだ(5)。遠浅の海底も埋め立てには好条件であった。すでに南大井では、現海岸線は明治期のそれの二・五キロメートルも沖にあって、東京湾を埋めつくさんばかりの勢いである。