台地ならばどこでもよい。試みにスコップで一メートルぐらいの深さの穴を掘ってみよう。コンクリート片や、骨材として使った砂利などのまじった黒土層が、厚さ数十センチメートルあり、その下に赤褐色の関東火山灰とよばれる赤土層が顔を出してくる(第7図参照)。
それでは沖積低地の表土はどうだろうか。黒っぽい土はあるが、台地部のそれとは異なって、砂っぽいだろう。その下にはすぐ固まっていない砂や小砂利あるいは泥の層がでてくる。つまり、台地と低地との表層地質の大きなちがいは前者に火山灰層があるのに対して、後者にはないという点である。
台地をおおう火山灰層は、西方の富士や箱根火山の活動で吹き上げられた火山灰が、上空の西風に運ばれて降り積もった地層である。浅い海底や河川敷に降り積もったものなら、軽い火山灰は波や水流で浸食されてしまうにちがいないが、陸地に降り積もったなら、雪のように、当時の陸をすべておおうわけである。だからもし火山灰が長い時間かけてわずかずつ堆積するなら、古くにできて安定した地表の方が、新しい地表より火山灰は厚く堆積しているにちがいない。そして一枚一枚の火山灰層が見分けられるなら、火山灰は土地の成立過程を記録する時計のような役割を果たすことになる。先に述べた沖積低地の上に、赤色の火山灰(赤土)がないということは、上の原理に従うと、沖積低地の地表の成立が、赤土の堆積より新しいことを示すことになる。
ところで、台地の地形をのべた際に、高度や開析度から高輸・荏原台は目黒台より古く成立したことをのべた。それではこれらの台地に堆積している火山灰の方からは、時代論に関して何をつけ加えることができるだろうか。
区内で火山灰のもっとも厚いところは、やはり荏原台や高輪台で、平坦部では一二メートル余を測ることができる(第8図の④参照)。いっぽう目黒台ではこれより約三メートル薄く、九メートル程度である(第8図の②と③参照)。
こんどは両台地の火山灰層のなかみを観察し、両者の時代のちがいをくらべてみよう。
区内では、よほど大規模なビルの工事でもないと、火山灰層の全断面をつぶさに観察することはできない。そうした根切り穴や、試錐で採られたコアを調べてみると、どの深さ(層序学では層準という)でも地表近くのような赤褐色を呈するのではなく、褐灰色のことが多い。またよくみると明褐色と暗褐色のところが層をなす場合もある。地下水の多いところでは、還元作用で俗に黒ロームと呼ばれる、ツルハシでないと掘り起こせないような、固い火山灰となっていることもある。赤褐色は酸化鉄の色である。こうした「赤土」には、堆積層理(よこの縞)ははっきりみられず、まるで一度にドカッと堆積したようにみえる。しかしよくみると黒っぽい腐植を含んだ部分が少なくとも二帯あったり、割れ目の多い帯があったり(第8図の②~④参照)して、けっして短年月のうちに積もったものではない。腐植は、かつて地表で植物の根や葉が分解して生じた、火山灰土壌を特色づける高分子有機化合物である。
地表から約六・五メートルの深さには、厚さ二〇センチートルの黄橙色または乳白色の軽石層が、台地ならどこにでも存在する(第10図参照)。これはやゝ粒のあらい、ざらざらした感じの軽石からなり、ちょうど園芸用の鹿沼土によく似たものである。これは東京浮石または東京軽石層(略号TP)とよばれているもので、火山灰中の重要な鍵層である。この下にも薄いが黄色の軽石が点在する部分がある。
東京軽石のように、はっきり一枚の層がみえるわけは、その上下の層に較べていちじるしく特色のある火山物質が、一度に多量に降下堆積したからである。この一度にというのは、火山の一大活動期ということで、おそらく数ヵ月位の時間の長さにと考えた方がよい。そして降下した直後はいまみられる二倍以上の厚さの軽石が堆積したにちがいない。堆積後雨で流乏したり、圧密・風化でもとの厚さがいちじるしく減ることは、一七八三年の浅間山の軽石でも知られている。
さて、東京軽石の埋もれている深さは、標高の異なる高輪台、目黒台のどの位置でも、斜面で測らない限り、ほとんど六・五メートル前後であることは注目に値する。つまり、高輪・荏原台と目黒台とで火山灰の厚さが三メートル程度異なるのは、東京軽石より下の部分の厚さのちがいによっている。第8図の④、火山灰最下部にある軽石帯(風化軽石層と書いてあるもの)は、第8図の②や③には見当たらない。すなわち、この軽石が降り積もっている間はまだ目黒台はできておらず、東京軽石層の下約二・五メートルくらいの層準の火山灰が降下したころ、目黒台が高輪・荏原両台地の間の地域にでき上がったということになる。立会川右岸の、荏原台から目黒台へ下りる斜面も、大局的にみればこのころでき上がったわけである。
ところで、このように地形の形成された時期は、火山灰層という時計によって位置づけることが可能となった。火山灰の分布が広ければ、それだけ広域にわたって、火山灰により地形の対比編年ができるというわけである。さらに、この火山灰に絶対年代の目盛りをつけることができれば、さらに時計の価値が高まる。これについては後段でやや詳しくのべることとし、ここでは火山灰の分層のことをつけ加えておこう。
東京付近の火山灰層は、上位から黒土層・立川火山灰層、武蔵野火山灰層、それに下末吉火山灰層(火山灰層はローム層ともよばれている)に分けられている。この分層はもっぱら地形面(台地面)との関係でおこなわれたもので、およそ立川段丘の上にのるものを立川火山灰、武蔵野段丘上にのる立川火山灰より下位の火山灰を武蔵野火山灰といった具合である。こうしてみると、火山灰がいかにも段丘の成立を記念して降ったかのような錯覚を与えがちであるが、もちろん火山灰を降らせた火山活動と、海や山のはたらきによる台地の形成とは、直接何の関係もない。各火山灰層の境は不整合といわれて堆積休止間隙が数万年ときわめて長かったと考えられていたが、最近では、さほど長い間隙をおかずに積もっていったと考えた方によい材料が集まっている。したがって、この火山灰分層はかなり便宜的であるが、段丘の形成史の大まかな時計として用いるときにはかなり役立つ。