宝永山の大爆発

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品川区内の火山灰層の大半は、富士山から飛ばされたものである。そこで、こうした火山灰時代の火山活動や火山灰の堆積の様子を推定するために、もっとも新しい富士宝永の爆発と、その火山灰についてのべておこう。

 富士山は、いまでこそ活動を休止し静まりかえっているが、歴史時代には何度も噴火をおこなった。もっとも新しい一七〇七年(宝永四年)の活動は、中腹に開いた宝永火口の活動であった。このときの噴火はもっぱら火山灰を空中高く噴出する爆発的な活動で、溶岩や火砕流は噴出しなかった。火山灰は成層圏に達し、つよい西風にのって真東へ飛び、江戸でもはげしい降灰をみた。新井白石の記録によると、十一月二十三日(旧暦)、江戸市中は時ならぬ空響きにおそわれ(午前十時)、その後空が曇って夕方のように暗くなり、灰白色の灰が降った(午後一時)。さらに夕刻より数日、黒色の砂(スコリアとよばれる玄武岩質の火山灰)が降りつづいた。活動がやんだのは、半月ほどたった十二月八日で、江戸では結局火山灰は六~九ミリメートルの厚さに積もったという。火口に近い富士東麓の村々では、真赤に焼けた軽石の降下のため、家を焼かれる人もあり、耕地は二メートルを越す火山灰で埋まって、大変な被害をうけた。

 この火山灰は富士東麓から伊勢原・厚木付近まで、今日でもはっきり地層として認められる。それより東の多摩丘陵南部でも、保存条件のよいところではわかるが、多くの場所では耕作土として乱されたり流乏したりして、ほとんどわからない。品川区の地にもおそらく、江戸市中よりわずかに厚く、一センチメートルくらいは積もったと推定できる。しかし今日ではどこでも識別できなくなっている。