宝永四年のような火山灰の降下堆積は、南関東の地ではけっしてまれではない。前記の赤土、さらに黒土そのものも、そのほとんどがこうした降灰が積み重なって形成された。宝永の爆発は、富士の活動史のなかでは異例に大きなもので、黒土や赤土層をつくった一枚一枚の火山灰層は、おそらく宝永の規模より小さい爆発に由来すると思われる。富士東麓の、一〇〇メートルを越し、全部数えると一、〇〇〇枚に近い尨大な火山灰層のなかで、宝永の火山灰層はとび抜けて厚いからである。
先述のとおり、東京軽石以上の火山灰の厚さは、当区で六・五メートルである。東京軽石が噴出した年代は約五万年前(後述)と測定されているので、かりに一回の大活動で当区周辺に平均一センチメートルの火山灰が積もり、かつ保存されたとすれば、この五万年の間に宝永クラスの爆発が六五〇回くらいもくり返された計算になる。平均一センチメートルの堆積の見積もりはやや過大だから、もっと降灰の回数は多かったにちがいない。また五万年をこの回数で割ってみると、八〇年に一度くらいの割合で火山は火を噴いたことになる。もちろんこれは平均であって、歴史時代に入ってからのように、六〇〇~七〇〇年間も降灰が中断した時代があったし、つづけさまに灰を降らせた時代もあった。富士東麓の火山灰層をみると、火山灰と火山灰との間に土壌ができている場合もあれば、ほとんどできていない場合もある。